岩倉具視
維新の十傑の1人
1825年生まれ、1883年没の日本の公家、政治家。維新の十傑の1人。五百円紙幣の肖像画だった人物。玄孫に日本の俳優の加山雄三がいる。
天皇を中心とした政治国家・王政復活に尽力した公家方のリーダー。王政復古の実現に大きな影響を与えた。
岩倉使節団として欧州に渡り、日本の近代化や先進国との不平等条約の条約改正に尽力する。公武合体派として和宮降嫁を推進したことや西郷隆盛らの征韓論を阻止したことでも有名。
誕生
1825年、前権中納言・堀河康親の次男として生まれる。
幼少の頃より知恵物で通り、その才を買われて、14歳の時、岩倉具慶の養子となる。岩倉家は村上源氏久我家の流れを組む家柄であったが、当時財政難の朝廷においても極貧といえる、禄高150石の下級公家であった。 その為、朝廷での発言力も弱かったが、五摂家の鷹司政通に接近し、その力を背に、権力を伸ばしていった。
台頭
1854年、孝明天皇の侍従となる。
1858年、老中・堀田正睦が日米修好通商条約締結の勅許を求め上洛してきた。勅許の内容について、朝廷内の意見が統一されない中、大老・井伊直弼と連携していた関白・九条尚忠が「幕府に全て委任する。」という案を出した。これに反対した岩倉は、同調する公卿88人を集めて参朝し、九条家を批判する書状を提出させた。これによって、九条案は撤回され勅許は与えられなかった。
結局は、幕府が勅許なしに条約の締結を強行するのだが、この事件によって、岩倉は朝廷内有数の実力者へとのし上がった。
和宮降嫁
安政の大獄が始まると、朝廷の要人に被害が及ぶのを避けるため、公武合体論を説いて回った。 そしてこれが、将軍・家茂と孝明天皇の妹・和宮との婚姻へと繋がる(和宮降嫁)。
岩倉としては、朝廷の復権のための目論見であったのだが、尊攘急進派の公卿や志士などからは、この婚姻は幕府に有利に働いたとして、攻撃の的となり、1862年、辞官落飾を命じられ、襲撃を恐れて各地を転々とし、洛北岩倉村で、名を友山と改め蟄居生活を送ることとなった。
蟄居時代
不遇な蟄居生活を送る中、王政復古の実現を思い描き、訪れる西郷隆盛・大久保利通・桂小五郎・中岡慎太郎・坂本龍馬らと交流を持った。 中でも、大久保ら薩摩藩とは連絡を密にしていた。
復帰
1867年に明治天皇が16歳で即位すると、薩摩藩の朝廷工作もあり、追放された公家達の復帰が赦される。 岩倉自身は、すぐに復帰はならなかったが、各方面と関係修復を図り、将軍・慶喜にも大政奉還を迫るなど、王政復古派公卿の中心人物として、その地位を固めていく。
政権のトップへ
1863年の政変で都落ちし、大宰府にあった三条実美とも和解し、同年、薩長に対し討幕の密勅を下した。 幕府は、これを事前に察知し、徳川家存続を図り、大政奉還を行った。
薩摩の大久保らと画策し王政復古の大号令を実現する。 その晩の小御所会議では、慶喜を擁護する土佐の山内容堂が激しく反論したが、明治天皇の御前で「幼い天子を利用し・・」と発言したのを逆手に取り、容堂を一喝、会議は岩倉ら討幕派の思惑通りに進行した。
その後、新政府の参与、議定、副総裁、外務卿などの要職を歴任。三条実美と共に政権のトップへ上り詰める。
岩倉使節団
1871年、右大臣になると、不平等条約の条約改定交渉の特命全権大使として、使節団を率い欧米へ向け渡航する。
岩倉使節団は、アメリカの近代国家ぶりやイギリスの工業技術に圧倒され、条約改正どころではなく使節団は各国への留学が主要目的となった。
「征韓論」論争
古代には朝鮮半島の南方の支配権を持っていたので、江戸時代後期の勝海舟などは朝鮮進出を考えていた。
しかし、日本は対話により朝鮮の開国・国交を望み、対馬藩を介して朝鮮に対して、新政府発足の通告と国交を望む交渉を行うが拒否された。
明治政府は再度使者を派遣するが、朝鮮側の態度のひどさに憤慨した使者が征韓を建白した。
さらに使者を2度使者を送るが朝鮮側が応じず、釜山において官憲の先導によるボイコットなども行なわれた。ここに、日本国内において征韓論が沸騰した。
板垣退助は居留民保護を理由に派兵を主張したが、西郷隆盛は派兵に反対し自身が大使として赴くと主張した。後藤象二郎などもこれに同意し、明治政府は派遣を決定したが、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通などが反対し、太政大臣代理だった岩倉具視の意見が明治天皇に受け入れられ、遣韓中止が決定された。
それにより、西郷隆盛などが下野した。
死去
井上毅などの具申を受けて、憲法改定の必要性を痛感した岩倉具視は伊藤博文に憲法制定を任せたが、大日本帝国憲法の制定を見る前に死去。死因は癌だった。癌の告知を受けた日本初の患者だと言われる。享年59歳。