日本の偉人

日本の偉人を紹介していきます。

細川忠興

天下一気の短い人物と評された武将

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。
丹後国宮津城主を経て、豊前国小倉藩初代藩主。肥後細川家初代。足利氏の支流・細川氏の出身である。正室は明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)。

足利義昭織田信長豊臣秀吉徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父・幽斎と同じく、教養人・茶人(細川三斎(さんさい))としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖である。大変な戦上手で、政治家としても優れていた。

織田時代

1577年、15歳で信長の紀州征伐に加わり初陣を飾るが、血気にはやり危うく命を落としそうになる。その武勇が信長に評価された。
同じ年に信長から離反した松永久秀の武将・森秀光が立て籠もる大和片岡城を父やその僚友・明智光秀と共に落とし(信貴山城の戦い)、信長直々の感状を受けた。

1579年、信長の命を受けて、父や光秀と共に丹後守護だった建部山城城主・一色義道を滅ぼした。また、同年には信長の仲介を受けて、光秀の三女・玉子(ガラシャ)と結婚する。この時、信長の命により九曜を定紋とし、これが細川家の家紋となった。

 

f:id:japonismlove:20150110104156j:plain

 

本能寺の変

1582年、岳父・明智光秀本能寺の変を起こし、藤孝・忠興父子を味方に誘ったが、細川父子はこれを拒否した上、玉子を丹後国の味土野(現在の京丹後市弥栄町須川付近)に幽閉した。幽閉されていた屋敷跡に「女城跡(御殿屋敷)」が現在も建っている。

細川父子に協力を断られたことは、光秀の滅亡を決定的にしたといわれている。このように本能寺の変において、忠興は早々に旗幟を鮮明にしたため、光秀との内通を疑われ討伐されることもなかった。その後、次期天下人の地位を狙う羽柴秀吉に誼を通じ、秀吉から丹後全域の領有を許された。

豊臣政権下

1584年の小牧・長久手の戦いに参加し、翌1585年には従四位下・侍従に叙任し、秀吉から羽柴姓を与えられ七将に数えられた。その後も1587年の九州征伐、1590年の小田原征伐に従軍した。1588年、豊臣姓を下賜される。

1592年からの文禄の役では九番隊に属して上陸し、慶尚道などの制圧を担当した。

長谷川秀一らと第一次晋州城攻防戦に参加し、前哨戦で慶尚右兵使の柳崇仁を討ち取ったが、攻城戦で晋州城を落とすことは出来なかった。翌1593年の第二次晋州城攻防戦にも参加して晋州城を陥落させた。

1598年秀吉が死去すると、石田三成らと対立し、福島正則らの三成襲撃に加わった。
同年、豊臣家の大老の筆頭であった家康の推挙で、丹後12万石に加え九州豊後杵築6万石が加増された。これにより、都合18万石の大名となった。

関ヶ原の合戦

1600年の関ヶ原の戦いでは東軍(家康側)に与した。
豊臣恩顧の武将として去就が注目されていたが、いち早く表明したため、他の豊臣恩顧の大名に影響を与えたと言われている。

大坂城内の玉造の細川屋敷にいた妻の玉子(ガラシャ)は西軍の襲撃を受け、人質となることを拒んで自害を余儀なくされた。このことに関連して、忠興は嫡男・忠隆を廃嫡している。

東軍の勝利に終わった関ヶ原の合戦の論功行賞で丹後12万石から豊前33万9,000石に国替のうえ加増となった。豊後杵築6万石は、そのまま細川領とされたので豊前中津藩39万9,000石の大大名となった。

 

f:id:japonismlove:20141228200510j:plain

 

徳川時代

1620年、病気のため、3男の忠利に家督を譲って隠居する。1632年、忠利が豊前小倉藩40万石から肥後熊本藩54万石の領主として熊本城に加増・移封される。

妻・ガラシャ

明智光秀の三女で細川玉子のこと。細川忠興の正室。キリスト教信徒(キリシタン)として有名。

明治期にキリスト教徒らが彼女を讃えて「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でも広くこのように呼ばれる場合が多い。

夫の忠興が上杉征伐に出向いている隙に、西軍の石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。
その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませた。ガラシャは人質にならぬよう、屋敷に火をかけて自刃した。

ガラシャの死は、ラテン語の戯曲「強き女...またの名を、丹後王国の女王グラツィア(=ガラシャ)」として、神聖ローマ皇后エレオノーレ・マグダレーネの聖名祝日の祝いに初演された。ガラシャの改宗の様子は、当時日本に滞在中のイエズス会宣教師たちが本国に報告していたが、そのような文献を通じて伝わった情報をもとに、ガラシャの実話に近い内容の戯曲が創作される結果となった。
この戯曲はオーストリアハプスブルク家の姫君たちに特に好まれたとされる。

 

f:id:japonismlove:20141221231859j:plain