日本の偉人

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足利義昭

室町幕府最後の将軍

室町幕府第15代将軍。

将軍になるまで

次男であった為、慣例により仏門に入って「覚慶(かくけい)」と名乗り一乗院門跡となった。兄義輝らが松永久秀らに暗殺されると、美濃国織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。

織田信長との対立

新将軍として幕府を再興した義昭はまず織田信長の武功に対し幕閣と協議した末「室町殿御父(むろまちどのおんちち)」の称号を与えて報いた。
信長は上洛の恩賞として尾張・美濃領有の公認と旧・三好領であった堺を含む和泉一国の支配を望んだために和泉守護に任じた。さらに、信長には管領代または管領の地位、そして朝廷への副将軍への推挙を申し入れた。
しかし信長は受けず、弾正忠への正式な叙任の推挙のみを受けた。

幕府再興を念願とする義昭と、武力による天下統一を狙っていた信長の思惑は違っていたために、両者の関係は徐々に悪化していくこととなる。
信長は将軍権力を制約するために、殿中御掟という9箇条の掟書を義昭に承認させた。さらに翌年、5箇条が追加され、義昭はこれも承認した。

信長の専横に不満を持った義昭は、自らに対する信長の影響力を相対化しようと、上杉謙信毛利輝元本願寺顕如や甲斐の武田信玄らに御内書を下しはじめた。これは一般に信長包囲網と呼ばれている。

1572年、信長は義昭に対して義昭を批判する17条の意見書を送付した。これによって義昭と信長の対立はが表面化し、義昭は挙兵。
東では武田信玄が上洛を開始し、三方ヶ原の戦いで信長の同盟者である徳川家康の軍勢を破るなど、信長は窮地に陥いる。

1573年、信長は子を人質として義昭に和睦を申し入れたが、義昭は信じずこれを一蹴した。
義昭は近江の今堅田城と石山城に幕府の軍勢を入れ、はっきりと反信長の旗を揚げた。しかし攻撃を受けると数日で両城は陥落している。

その頃、東では信玄の病状が悪化したため、武田軍は本国への撤退を始める。信玄はその途中に死去した。
信長は京に入り知恩院に陣を張った。義昭は(おそらく信玄の死を知らなかったため)、洛中の居城である烏丸中御門第にこもり、抵抗を続けた。

信長は講和の使者を送るが、義昭はこれを拒否。
信長は武力による圧力と朝廷への工作により勅命による講和が成立した。しかし、3か月後に義昭は講和を破棄。南山城の要害・槇島城(山城国の守護所)に移り挙兵した。

織田軍が攻撃を始めると槇島城の施設がほとんど破壊されたため、家臣にうながされ、しぶしぶ降伏した。

 

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備後への下向

信長は義昭の京都追放を実行し、足利将軍家の山城及び丹波・近江・若狭ほかの御料所を信長は自領とした。

義昭追放後は信長一人が天下人としての地位を保ち続け、一般的にはこの時点をもって室町幕府の滅亡と、現時点の歴史書では決めている。
しかし京都から追放されたとは言っても義昭は征夷大将軍であり続けたと公式記録(公卿補任)には記されている。そのため近畿周辺の信長勢力圏以外(北陸・中国・九州)では、追放前と同程度の権威を保ち続けた。

1588年に関白豊臣秀吉と共に御所へ参内し、准三后となり正式に征夷大将軍を辞し、名実ともに室町幕府が終焉を迎えた。秀吉からは山城槇島において1万石の領地を認められた。
1万石とはいえ前将軍であったので、殿中での待遇は大大名以上であった。

文禄・慶長の役には、秀吉のたっての要請により、由緒ある奉公衆などの名家による軍勢200人を従えて肥前名護屋まで参陣している。

晩年は斯波義銀・山名堯熙・赤松則房らとともに秀吉の御伽衆に加えられ、太閤の良き話相手であったとされる。毛利輝元の上洛の際などに名前が見られる。

1597年、大坂で薨去。死因は腫物であったとされ病臥して数日で没したが、老齢で肥前まで出陣したのが身にこたえたのではないかとされている。享年61。

 

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