日本の偉人

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一休宗純

一休さん」のモデルとなった人物

一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は、室町時代臨済宗大徳寺派の僧、詩人。
説話の「一休さん」のモデルとなった人物。後小松天皇のご落胤だと言われている。

早くから詩才に優れ、13歳の時に作った漢詩長門春草』、15歳の時に作った漢詩『春衣宿花』は洛中の評判となり賞賛された。
1415年には、京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となる。

「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから華叟より一休の道号を授かる。
1428年、称光天皇が男子を残さず崩御伏見宮家より後花園天皇が迎えられて即位したが、この即位には一休の推挙があったと言われている。

1474年、後土御門天皇勅命により大徳寺の住持に任ぜられた。
寺には住まなかったが再興に尽力し、塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建された。また、戦災にあった妙勝寺を中興し草庵・酬恩庵を結び、後に「一休寺」とも呼ばれるようになった。天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたという。

1481年、酬恩庵京都府京田辺市の薪地区)おいてマラリアにより死去。享年88。

逸話など

木製の刀身の朱鞘の大太刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわった。これは「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということで、外面を飾ることにしか興味のない当時の世相を批判したものであったとされる。

 

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