日本の偉人

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春日局

大奥の制度を確立

安土桃山時代から江戸時代前期の女性で、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号である。本名は斎藤福。明智光秀の家老斎藤利三と稲葉通明(一鉄)の娘の安との子。
江戸城大奥の礎を築いた人物であり、松平信綱、柳生宗矩と共に家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられた。
また、朝廷との交渉の前面に立つ等、近世初期における女性政治家として随一の存在であり、徳川政権の安定化に寄与した。

1604年家光の乳母に正式に任命される。家光の両親である2代将軍秀忠と御台所お江与の方(崇源院)が2歳下の弟忠長を溺愛したため家光の次期将軍の座が危うくなるや、局は伊勢参宮を口実に江戸を出て、駿府の大御所家康に直訴した。その結果、家康の計らいにより家光の世嗣としての立場が確立する。

1629年天皇に拝謁し、春日の局号と緋袴を賜った。その際、武家である斎藤家の娘の身分では天皇に会う資格が無かった為に、公卿三条西家の養女となりその資格を得た。
その後、1632年に再度天皇に拝謁し、従二位に昇叙した。これは同じ従二位の平時子北条政子に比定する位階となる。

局は大奥の制度を整え、掟なども制度化したという。また大奥を掌握したのみでなく,表に対しても発言力があった。老中堀田正盛,松平信綱らも年少のころから家光の側近くに仕え、局の大きな影響を受けて育った。
局の縁故により前夫正成は2万石の大名となり、長男正勝は老中に出世し、兄斎藤利宗・三存も旗本に取り立てられた。局自身も代官町と春日町に屋敷を賜り、3000石を領した。

没後は自らが建立した江戸湯島天沢寺(麟祥院)に葬られた。今も麟祥院に残る緋袴を着した春日局像は、局の還暦祝に家光が狩野探幽に描かせたものといわれる。

 

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