日本の偉人

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山名宗全

応仁の乱の西軍総大将

室町時代の武将、守護大名。但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。名は持豊(もちとよ)。宗全は法名応仁の乱の西軍の総大将として知られ、西軍の諸将からは宗全入道または赤入道と呼ばれていた。一休宗純は宗全のことを「業は修羅に属し、名は山に属す」と風刺し、毘沙門天の化身だと言っている。

宗全は山名時熙の次男で兄・持煕が足利義教の勘気にふれ、廃嫡されたことにより山名氏の家督を継いだ。山名氏は曽祖父・時氏、祖父・時義の代には全国66ヵ国の内12ヵ国の守護職を得て六分一殿、六分一家衆と呼ばれていたが、明徳の乱により山名氏の勢力は大きく衰退していた。

しかしながら、嘉吉の乱足利義教が赤松満祐に討たれると侍所頭人として、赤松氏追討の主力となり、乱後、赤松氏の旧領を得るなど、山名氏の領国は増え、六分一殿といわれた時代に迫る勢いを示した。
持豊は拡大した分国を維持するため娘を細川勝元に嫁がせるなど慎重に保全策を巡らしたが、細川氏が山名氏を牽制するために赤松家の再興を支援するようになると次第に対立するようになり、同じ頃、三管領の畠山家、斯波家では家督相続問題が起こり、畠山政長、斯波義敏が細川勝元を頼ったため、彼らと対立する畠山義就、斯波義廉は持豊を頼ることとなった。

 

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さらには足利将軍家の継嗣争いが加わり、勝元が足利義視(義政の弟)の後見人を引き受け、日野富子が対抗して宗全に足利義尚(義政の子)の後見を依頼したことにより両者の対立は決定的なものとなり、1467年に応仁の乱が勃発した。

宗全の西軍は当初こそ「公方の御敵」とされ、劣性であったが、大内政弘が大軍を率いて上洛、西軍方に加わったことにより、両軍の勢力は互角となり、戦局は長期化の様相を呈するようになった。膠着状態が続く中、未曽有の争乱は地方にも拡大、勝敗が決まらないままに、1473年3月に宗全が病死、続いて勝元も5月に病死した。翌年5月にそれぞれの家督を継いだ山名政豊と細川政元との間で和睦が成立したが、世はすでに戦国時代に入っていた。

 

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