日本の偉人

日本の偉人を紹介していきます。

樋口季一郎

2万人のユダヤ人を救った男

イスラエルには世界的に傑出したユダヤ人の名を代々登録し、その功績を永遠に顕彰する「ゴールデン・ブック」という本がある。その中に、モーゼ、メンデルスゾーンアインシュタインなどの傑出したユダヤの偉人達にまじって、「偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口」とあり、その次に樋口の部下であった安江仙江大佐の名が刻まれている。淡路島生まれの陸軍軍人。

オトポール事件

1937年12月26日、第1回極東ユダヤ人大会が開かれた際、関東軍の認可の下、3日間の予定で開催された同大会に、陸軍は「ユダヤ通」の安江仙弘陸軍大佐をはじめ、当時ハルピン陸軍特務機関長を務めていた樋口(当時陸軍少将)らを派遣した。
この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチス・ドイツの反ユダヤ政策を、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と、間接的に激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた。

1938年3月、ユダヤ人18名がナチスの迫害下から逃れるため、ソ連満州国の国境沿いにある、シベリア鉄道・オトポール駅(現在のザバイカリスク駅)まで避難していた。しかし、彼らは亡命先に到達するために通らなければならない満州国の外交部が入国の許可を渋り、足止めされていた。
樋口はこの惨状に見かねて、ユダヤ人に対し、直属の部下であった河村愛三少佐らとともに即日給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施、更に膠着状態にあった出国斡旋、満州国内への入植斡旋、上海租界への移動の斡旋等を行った。

その後も難民は増え続け、JTBの記録によると、満州から入国したドイツ人(ユダヤ人)は、1938年、245名となっている。松井重松(当時、案内所主任)の回想録には「週一回の列車が着くたび、20人、30人のユダヤ人が押し掛け、4人の所員では手が回わらず、発券手配に忙殺された」と記されている。

オトポール事件については、当初2万人のユダヤ系避難民が救われたとされ、あまりの数の多さに事件の存在自体が疑問視されていた。これは樋口の回顧録の誤植から流布した数字であり、樋口の遺品から18名の写真が発見されるなど、真相が解明されつつある。

 

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ソ連戦闘

1942年8月1日、札幌に司令部を置く北部軍(のち北方軍・第5方面軍と改称)司令官として北東太平洋陸軍作戦を指揮。アッツ島玉砕、キスカ島撤退を指揮し、キスカ島撤退作戦では救援艦隊の木村少将の要請を容れ、大本営の決裁を仰がずに独断で在留軍に、小銃を含めたあらゆる武器の海中投棄を指示して、乗船時間を短縮し撤退の成功に貢献した。

敗戦後にも、占守島樺太における対ソビエト軍の戦闘を指揮し、占守島の戦いではソ連軍千島侵攻部隊に痛撃を与えた。

そのためスターリンは当時軍人として札幌に在住していた樋口を「戦犯」に指名した。
世界ユダヤ協会はいち早くこの動きを察知して、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、在欧米のユダヤ人金融家によるロビー活動も始まった。

世界的な規模で樋口救出運動が展開された結果、ダグラス・マッカーサーソ連からの引き渡し要求を拒否して、樋口の身柄を保護した。

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