日本の偉人

日本の偉人を紹介していきます。

井伊直弼

日本の開国を断行した男

近江彦根藩の第15代藩主。
幕末期の江戸幕府にて大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺された(桜田門外の変)。

第15代彦根藩藩主

井伊直弼は遅咲きで、17歳から32歳までの15年間を、捨扶持の部屋住みとして過ごした後、第14代藩主の兄の養子と言う形で家督を継ぐ。その15年間に、茶人として大成し、和歌や鼓、禅、槍術、居合術を学び、聡明さを早くから示していた。
藩主に就任すると、藩政改革を行い、名君と呼ばれ、江戸城では溜間詰上席として、将軍継嗣問題と日米修好通商条約調印問題をめぐり存在感を示す。

黒船来航

1853年に黒船が来航すると、江戸湾防備に活躍。
元々は開国に反対であったが、「開国と富国強兵こそ日本が生き残る道」と考え、開国を断行する。それに対し、尊皇攘夷派は開国に反対し、幕府を倒そうと動き始めました。
井伊直弼は日本を二分(開国派と攘夷派)しないために、尊王攘夷派(そんのうじょういは)の処刑にふみきるのである(安政の大獄)。

 

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安政の大獄

第14代徳川将軍の後継者争いで、紀州藩徳川慶福(家茂)を推す南紀派と一橋慶喜を支持する水戸系の一橋派が対立した。また、米国総領事タウンゼント・ハリスが、日米修好通商条約の調印を江戸幕府に迫っていた。
条約はやむを得ないが、調印には朝廷の勅許が必要と言うことになったが、梅田雲浜尊皇攘夷派の工作によって、元々攘夷派の孝明天皇から勅許を得ることは出来なかった。
そんな中、南紀派の井伊直弼大老に就任し、無勅許の条約調印と家茂の将軍継嗣指名を断行した。
これに反対した水戸前藩主の徳川斉昭を始めとして、梅田雲浜や公家の家臣にまで謹慎、捕縛、処刑などを行った。そして、梅田雲浜と交流があったということで、吉田松陰を処刑した(これが最後の処刑者)。

連座したものは100人以上にのぼった。

桜田門外の変

安政の大獄に先立って、孝明天皇は「戊午の密勅」と呼ばれる密勅を水戸藩に下し、井伊直弼の排斥を呼びかけた。

将軍の臣下であるはずの水戸藩へ朝廷から直接勅書が渡されたということは、幕府がないがしろにされ威信を失墜させられたということであったため、水戸藩に対し戊午の密勅の返納を催促した。この催促は数度にわたって続けられ、勅を幕府に返納することにした。
ところが水戸藩の士民(特に過激派)が激昂して勅の返納を阻止あるいは朝廷に直接返納すべきとして混乱する。井伊は返納しないと水戸藩を改易するとまで述べたことが、水戸藩氏を憤慨させ、水戸藩浪士と薩摩藩藩士に襲撃を受け首を刎ねられた。

一期一会

一期一会(いちごいちえ)とは、茶道に由来することわざで、『あなたとこうして出会っているこの時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものです。だから、この一瞬を大切に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう』と言う意味の、千利休の茶道の筆頭の心得である。
井伊直弼は、これを著書『茶湯一会集』巻頭に「一期一会」という言葉にして世の中に広めた。

 

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