日本の偉人

日本の偉人を紹介していきます。

石田三成

 

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関ヶ原の合戦における西軍の主導者

安土桃山時代戦国大名。豊臣政権の五奉行の筆頭としても知られる。
豊臣秀吉長浜城の主となった際に父・兄と共に秀吉に仕官し、自身は小姓として仕える。
信長が本能寺で亡くなると、秀吉の側近として次第に台頭していく。

島左近

秀吉の関白就任に伴い、三成は従五位下治部少輔に叙任される。当時名将として名高かった島左近を知行の半分を与えて召し抱えたと言われている。秀吉はこれに驚愕、そして賞賛し、左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋入りの羽織を与えた。

豊臣政権下

三成は堺奉行、博多奉行を歴任し、小田原征伐にも参加した。
その後、文禄の役では唐入り(朝鮮出兵)の総奉行を務め、明との講和などに積極的役割を果たした。その際、現地と秀吉との連絡役という立場が福島正則黒田長政などの反発を招いている。

その後、近江7万石、近江佐和山19万4000石が秀吉から与えられた。
秀吉の命令により、キリシタン弾圧を行うが、捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りをなだめて信徒達が処刑されないように奔走するなどの情誼を見せたといわれている。

第3次の唐入り時に福島正則らと大将になる予定だったが、秀吉が没した為に実現していない。

秀吉死後

秀吉死後に豊臣政権は豊臣秀頼が継いだが、徳川家康が次第に台頭していく。
家康に匹敵する勢力を持っていた前田利家が病死すると、豊臣政権は家康を抑えきれなくなっていった。

前田利家の病死直後、三成と対立関係にあった武断派加藤清正福島正則黒田長政細川忠興、浅野幸長、池田輝政加藤嘉明の7将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件がおきる。
家康の仲裁により、和談が成立するが、三成は五奉行から退隠させられる。前田利家病死・三成の蟄居により、家康の専横は活発になっていった。

 

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関ヶ原の合戦

1600年7月、三成は家康を排除すべく、上杉家の家老・直江兼続らと密かに挙兵の計画を図り、家康が会津征伐に向かった際に挙兵した。

大谷吉継を説得し仲間にした後、諸大名の妻子を人質として大阪城内に入れる為軍勢を送りこんだ。しかし、加藤清正の妻などには逃げられ、細川忠興の妻・ガラシャには自殺された為、人質作戦は中止された。

毛利輝元を西軍の総大将として大阪城に入城させ、家康配下の鳥居元忠伏見城を苦戦しながらも落とし、諸大名に参集を呼びかけた。
三成は、大垣城に入り美濃で家康を食い止める予定が、家康が戻ってくるのが思ったよりも早かったのと、味方の小早川秀秋が思いがけず松尾山に陣取った為に、関ヶ原で家康に決戦を挑むことになった。

当初は優勢であったが、小早川秀秋脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなり、三成は逃走して伊吹山に逃れたが、その後捕まり、斬首された。

大一大万大吉

三成が使っていた家紋。「大一大万大吉」というのは「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」という意味とされる一方、近代以前にその意を示した文献はなく、本来は「一」を「かつ」と読み、縁起の良い文字を重ねたものともされる。

無双の才覚

太閤検地においては検地尺を定めるなど、大きな実績を残した。豊臣家奉行の筆頭格であり、優れた行政能力を持った官僚であったという評価は定着している。世の人々が三成を「無双の才覚」と讃えていたと言われている。

三杯の茶(三献茶)

伊吹山の観音寺に、鷹狩りの帰りにのどの渇きを覚えた秀吉が立ち寄り、寺小姓に茶を所望した際、寺小姓は最初に大きめの茶碗にぬるめの茶を、次に一杯目よりやや小さい茶碗にやや熱めの茶を、最後に小振りの茶碗に熱い茶を出した。
まずぬるめの茶で喉の渇きを鎮めさせ、後の熱い茶を充分味わわせようとする寺小姓の細やかな知恵配り・心遣いに感じ入った秀吉は彼を家来として採用した。

それが後の石田三成である、という逸話がある。

大谷吉継との友情

秀吉の茶会で、一口ずつ飲み次へ茶碗を回す回し飲みがされた。
らい病を患っていた大谷吉継は飲む振りのみで茶碗を回そうとしたが、顔から出た膿が茶に落ちてしまった。
以降の諸大名は茶に口を付けるのを嫌がり飲む振りだけで茶碗を回していったが、三成は躊躇わず茶を飲み干した。それ以降二人の間には一層深い友情が生まれたという。

大谷吉継関ヶ原の合戦では、家康には勝てないと分かっていながら、三成に頼まれた為、三成側に立って家康と戦った。

人物

関ヶ原の戦いで敗走した三成は、自身の領地である近江国の古橋村に身を潜めた。
その後、与次郎太夫という百姓の招きで、山中の岩窟に身を隠した。

与次郎はこの時、徳川軍による咎めの責任を一身に引き受けるために妻を離縁し、刑死を覚悟で三成を介抱した。
三成はこの義侠心に感じ入り、与次郎に咎めが及ばないよう、与次郎を説得して自分の居場所を徳川軍へ告げさせた。

徳川軍を代表して三成の捜索に当たっていた田中吉政は、近辺の村々に対し、三成を生け捕りにした場合にはその村の年貢を永久に免除する、生け捕りにせず殺した場合にはその者に賞金百両を与える、逆に三成を匿った場合には当事者のみならずその親族および村人全員に至るまで処刑すると触れを出していたが、最終的には与次郎が三成の説得に従って自首したため、村は虐殺を免れている。

 

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