日本の偉人

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滝川一益

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織田四天王の一人

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。甲賀の里出身の忍者だったという説もある。 鉄砲の名人。

「先駆けは一益、殿(しんがり)も一益」と言われるほどの勇将

織田家においては伊勢方面の攻略を担当。信長の次男信雄とともに北畠氏討伐など。1574年には、伊勢長島の一向一揆を討伐、殲滅。伊賀攻めにも功を上げ、北伊勢五郡を支配。蟹江城と兼ねて、長島城主にもなり、信長の重臣の座に加わる。武田攻めには先鋒として参加。武田勝頼を天目山に破った功で、上州および信濃の二郡を与えられ、厩橋城(前橋)に移り関東管領を号す。信長の五人の軍団長の一人にまで数えられる。

信長の死

信長が本能寺の変で打ち取られた際、一益の重臣たちが信長の死を隠して京に向かうことを促したが、関東諸将の人質をすべて返し、信長の死を打ち明けて、反勢力である北条氏と戦った。
しかし、関東管領になってから3か月しかたっておらず、信長の死で部下も浮き足立っており、北条に敗北する。

伊勢に逃げ帰った時は、信長の跡目を決める清州会議が終わっており、決定的に出る幕を失った。

1583年、柴田勝家織田信孝らと組み、羽柴秀吉と戦ったが、一益自身は篭城し孤軍奮闘したものの、勝家が敗北したため降伏する事となる。
秀吉に許され、近江5千石に封じられた後は、小牧・長久手の戦いで秀吉につき、伊勢と尾張に兵を挙げ、家康軍と戦った。しかし蟹江城を包囲され、降伏。これを恥じて出家し、亡命。1586年、不遇のうちに越前で死去。62歳。

 

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