日本の偉人

日本の偉人を紹介していきます。

目賀田種太郎

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 1853年に静岡県の駿河藩に生まれた偉人。専修大学東京音楽学校(現:東京藝術大学)、JT日本たばこ産業株式会社)の前身である日本専売公社の創始者。社交ダンスを日本に初めて伝えるなど、幅広い分野で活躍した偉人。

明治時代に大活躍した超大物中の大物。

しかし、歴史からは全くというほど消えて無名の存在です。何があったのでしょうか。

 

生い立ち

目賀田は、1853年に駿河藩士の家に生まれ、1870年の17歳の時に国費で米国に留学します。

そして、ハーバード大学を優秀な成績で卒業し、帰国後、開成学校(現:東大)の生徒12人を連れて、再渡米しています。

 

専修大学設立

当時、日本には法学を教える学校は2つしかありませんでした。東大の法学部と司法省の法学校ですが、どちらも英語とフランス語で教えていました。

そこで目賀田は、日本で法学を教える為に専修大学を設立します。

 

日本の財政の基礎作り

その後、27歳の 1880年には、東京代言人組合(現東京弁護士会)の会長を勤め、翌年には裁判官に就任しています。

 

そして、1883年に大蔵省に入省し、1894年には大蔵主税局長に就任し、日本の税制や財政制度の基礎作りをします。

もともと貧弱だった日本の財政は、1896年に起きた日清戦争によって、さらに悪化します。

 

そこで、目賀田は日本の財政難を救う為に、たばこ事業を国営化し、日本専売公社(現JT)を創設します。この会社は、1985年に専売公社が、日本たばこ産業株式会社として民営化されるまで、実に90年間も日本の財政の一端を担うようになります。

1904年に貴族院議員に就任すると、国際連盟大使、枢密顧問官を歴任し、1926年に逝去します。享年、73歳。

 

韓国の財政の基礎作り

明治維新以降、日本が朝鮮半島に一番望んでいたのは、朝鮮半島の近代化でした。

ロシアの南下という脅威に対し、朝鮮が自立してくれないと日本まで危なくなるからです。

そこで、日本は福沢諭吉などが朝鮮の改革推進者である金玉均を支援したり、朝鮮の優秀な若者を留学生として招いて近代化を説こうします。

そして、朝鮮に、金弘集という首相が現れ、改革は一気に前進するかに見えましたが、朝鮮半島の国王が自らロシアに媚びを売り、金弘集首相を失脚(その後虐殺)させ、ことごとく近代化が失敗します。

 

そして日露戦争の最中である1904年に、日本と李氏朝鮮との間で、第一次日韓協約が締結され、「韓国の財政再建」のために日本から優秀な人材を派遣することが決まりました。

 

当時、朝鮮半島は近代化はおろか、国家財政という概念すら存在していませんでした。国家財政というのは、国王の個人財産でした。

 

そこで、日本の財政を立て直したスペシャリストである目賀田を朝鮮半島に送り込みます。第二次日韓協約後には、日本の初代首相である伊藤博文を送りこんでいます。

日本が、朝鮮半島の近代化にどれだけ真剣だったか良く分かります。

 

朝鮮半島の状況を視察した目賀田は、民衆があきれるほどに貧しいことにびっくりしたと言います。

財政とは関係がないですが、目賀田は朝鮮半島にはまっすぐ柱が立っている家がなかったので、日本から大工を招いて、まずはちゃんと柱と梁が垂直になる家の見本をこしらえたりもしています。

 

目賀田は、日韓併合後に朝鮮半島内で公正な税制の基礎を固めるため、土地調査事業を開始します。

土地の所有関係を明確にし、課税の公平性を確保するために、最低限必要な手当だからです。

これにより、日本は朝鮮から土地を奪ったという嘘が朝鮮で流れていますが、事実は違います。

 

目賀田は、土地の所有は「自己申告による」とします。

その為、ほとんどが朝鮮の支配層である両班(やんぱん)の土地となります。

そして、誰も名乗り出なかった土地をいったん没収として、朝鮮人の常人(さんみん)などにただ同然で売却しました。

(日本人に払い下げたと言っている人達もいますが、日本人が半島に渡ったのはこの土地調査事業後のことです。)

 

それ以前までは、常人(さんみん)が農作物を作っても、両班(やんぱん)が料金も払わずに勝手に持って行っていたので、農作物がほとんど出来ませでした。

 

しかし、自分の土地となり、安心して作物が作れるようになると、人口は倍近くにまで増えることとなっています。

 

目賀田は、朝鮮人が安心して生活できるようにするための公平な税制を構築し、その後、国連大使に任命されて半島を出ています。

 

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