日本の偉人

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下村脩

ノーベル化学賞受賞者

名古屋大学出身の生物学者(有機化学・海洋生物学)。ボストン大学名誉教授、ウッズホール海洋生物学研究所特別上席研究員、名古屋大学特別教授。

生物発光研究の第一人者

有機化学・海洋生物学を専門とする生物学者、中でも生物発光研究の先駆者であり第一人者。名古屋大学プリンストン大学、ボストン大学、ウッズホール海洋生物学研究所などに在籍し、発光生物についての研究を継続。その中のひとつ、オワンクラゲ緑色蛍光タンパク質の発見は、その後生命科学、医学研究用の重要なツールに発展して2008年のノーベル化学賞受賞に結びついた。

活動

旧制長崎医科大学附属薬学専門部(長崎大学薬学部の前身)に進学し、1951年卒業。
薬学専門部卒業後、武田薬品工業の研究職を志すが、面接担当者に「あなたは会社員に向きません」との忠告を受け断念。
就職試験に落ちた下村は長崎大学薬学部の安永峻五教授のもとで実験実習指導員を4年間務めた。

安永は下村を研究者として育成し幅広い知識を習得させるため、分子生物学で有名な名古屋大学理学部の江上不二夫教授のもとに1年間内地留学させたいと考えた。

1955年、安永と下村は、名古屋大学を訪れたが、江上は不在。代わりに応対した有機化学の平田義正教授は、「私の所にいらっしゃい」と下村に言った。下村は、分子生物学有機化学も当時は知らなかったので、天の指図だと思い平田教授の有機化学研究室に行くことを決めた。

1955年から平田の有機化学研究室に研究生として所属。平田から与えられた研究テーマは「ウミホタルのルシフェリンの精製と結晶化」だった。
これは、プリンストン大学のグループが20年以上も前から解決しようとしていた、極めて難しい問題であった。

下村は、研究に没頭。10か月後の1956年2月に、努力が実を結び「ウミホタルのルシフェリンの結晶化」に成功した 。
27才の下村の成し遂げた業績であった。

1959年には、長崎大学の助手となる。
1959年、プリンストン大学の フランク・ジョンソン教授は下村の論文に感銘を受け、プリンストン大学に招聘、下村は受諾した。

平田はハーバード大学留学体験から博士の学位により報酬が倍増されることを知っていたため、博士課程の学生ではなかった下村に博士号を与えた。

帰国後、名古屋大学助教授に就任。結婚して長男を授かる。安定した生活をしていたが、それを捨て再び渡米し、研究の拠点をアメリカに移す。

2001年にはボストン大学名誉教授となる。
プリンストン大学時代にフライデーハーバー実験所で行ったオワンクラゲからのイクオリンおよび緑色蛍光タンパク質 (GFP) の発見(1962年)とその後の研究は生物発光の学問の世界にとどまらず、今日の医学生物学の重要な研究ツールとして用いられ、医学臨床分野にも大きな影響を及ぼしている。
主たる研究活動の場が米国であったためノーベル賞受賞まで日本での知名度は低かった。

 

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