正岡子規
明治時代を代表する文学者の一人
正岡子規は、1867年から1902年に活躍した日本の俳人、歌人、国語学研究家。
俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面に亘り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治時代を代表する文学者の一人。
1890年、帝国大学(東大)哲学科に進学したものの、後に文学に興味を持ち、翌年には国文科に転科した。
大学中退後、新聞『日本』の記者となり、家族を呼び寄せそこを文芸活動の拠点とした。
1894年、に日清戦争が勃発すると、翌1895年4月、近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡ったものの、上陸した2日後に下関条約が調印されたため、同年5月、帰国の途についた。その途中で喀血して重態に陥り、療養後松山に帰ってきた。
喀血した(血を吐いた)ことから、「鳴いて血を吐く」と言われているホトトギスと自分を重ね合わせ、ホトトギスの漢字表記の「子規」を自分の俳号とした。
1897年に俳句雑誌『ホトトギス』(ほとゝぎす)を創刊し、俳句分類や与謝蕪村などを研究し、俳句の世界に大きく貢献した。
やがて病いに臥せつつ『病牀六尺』を書いたが、これは少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視し写生した優れた人生記録と、現在まで読まれている。
代表俳句
『柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺』
何故横向いた写真ばかりなのか。
子規の弟子だった河東碧梧桐の著書に子規は目と目がとても離れていたという記述があり、それを気にして横を向いていると言う説や子規は結核から宿痾となる脊椎カリエスのために背筋を伸ばすことが出来ず、極端に前屈みになっており、その苦痛に耐える姿は、子規のダンディズムからは自認出来ず、結果、横を向いている写真となったという説などがある。