日本の偉人

日本の偉人を紹介していきます。

名も無き少年

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冒頭の写真は、戦後長崎市の浦上川周辺の焼き場で撮られたものです。

 

原爆が投下された長崎市の遺体の焼き場で、少年は亡くなった弟を背負い、直立不動で火葬の順番を待っている。

 

足は靴などなく、裸足です。

 

この写真を撮ったアメリカ海軍カメラマンのジョー・オダネル氏は、朝日新聞創刊120周年記念写真展でこう回想しています。

 

佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
すると、白いマスクをかけた男達が目に入りました。
男達は、60センチ程の深さにえぐった穴のそばで、作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を、石灰の燃える穴の中に、次々と入れていたのです。

10歳ぐらいの少年が、歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は、当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子は、はっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという、強い意志が感じられました。
しかも裸足です。
少年は、焼き場のふちまで来ると、硬い表情で、目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊は、ぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。

少年は焼き場のふちに、5分か10分、立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に、初めて気付いたのです。
男達は、幼子の手と足を持つと、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。

 (中略)

真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を、赤く照らしました。
その時です。
炎を食い入るように見つめる少年の唇に、血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年が、あまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に、赤くにじんでいました。

夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま、焼き場を去っていきました。」

 

 

美智子皇后はこの写真を見て、「その姿が今も目に残っています。」と宮内庁のHPでおっしゃっておられました。

 

この見た人すべての人の心を動かす一枚は、この写真を撮ったアメリカ海軍カメラマンのジョー・オダネル氏の心をも動かしていました。

 

占領軍として、長崎に入ったオダネル氏の任務は、原爆の破壊力を記録することでした。

 

この写真は軍の命令に背き、ひそかに撮った30枚の写真の内の1つです。

 

戦後43年経って、封印していた写真をオダネル氏は公開します。

 

オダネル氏は、真珠湾攻撃によって復讐心に燃え、海兵隊に志願した人でした。

 

その彼が、原爆投下後の長崎に入って見たものは彼の考えそのものを変える衝撃的なものでした。

「私は、灰と瓦礫につまづきながら、爆心地を見渡した。
衝撃的だった。
そこには、人が暮らした文明の跡形も無かった。
自分が地球に立っているとは思えないほどの破壊だった」

 

「この世のものとは思えないものを見た。
それは本当に酷かった。
死んだ人、子どもたち、その母親、間もなく死ぬ人、飢えている人、そして原爆症……。

あまりにも多くの傷ついた人々を撮影しているうちに、日本人に持っていた憎しみが消えていった。
憎しみから哀れみに変わった。
なぜ人間が、同じ人間に、こんな恐ろしいことをしてしまったのか。

私には理解できない」

 

「被爆者たちの体をうごめくウジ、助けを求める声、鼻をつく異臭。

私は、長崎で見た悪夢のような光景を、思い出すまいとした。
しかしその光景は頭から離れず、私を苛み続けた。
あの時のアメリカの決断は、正しかったと言えるだろうか。

眠ろうとしても眠れない。
悪夢が終らないのだ。
写真を見たくなかった。
見ると、あの1945年の時に引き戻されて、長崎の悪夢がよみがえってしまう。

見ないという他に、私にはなにもできなかった」

 

オダネル氏自身も被爆していたらしく、背骨の変形や皮膚がんに悩まされていたそうです。

 

そして、1990年にアメリカの各地で写真展を開催し始めます。

 

しかし、現在もそうですが、当時のアメリカでは、原爆は正当な行為という意見がほとんどで、オダネル氏の活動は批判の対象となり、家には嫌がらせの手紙が来るようになり、妻エレンさんはオダネル氏の行動を理解出来ずに離婚しました。

 

「どうか誤解しないでほしい。
私はアメリカ人だ。
アメリカを愛しているし、国のために戦った。
しかし、母国の過ちを、無かったことにできなかった。
退役軍人は、私のことを理解してくれないだろう。
私は、あの場所で居て、死の灰の上を歩き、この目で惨状を見たのだ。
確かに日本軍は、中国や韓国に対してひどいことをした。
しかし、あの小さな子どもたちが、何かしただろうか。

戦争に勝つために、本当に、彼らの母親を殺す必要があっただろうか。

1945年、あの原爆は、やはり間違っていた。

それは、100年経っても、間違いであり続ける。

絶対に間違っている。絶対に。
歴史はくり返すと言うが、くり返してはいけない歴史もあるはずだ」

 

しかし、全てが彼の敵にまわった訳ではありませんでした。

 

「アメリカ人が好むと好まざるとに関わらず、8月6日と9日は毎年やってくる。

嫌がらせの手紙や投稿が、どんどん集まってくる。
『お前は裏切り者だ』
『アメリカが嫌なら日本に行け』と。

ある時、娘が教えてくれた。
『お父さんの活動に、味方する投稿がひとつだけあるよ。
それはとってもポジティブな内容で、お父さんは正しいことをしたって言ってる』と。

その投稿は、私への批判の声に、反論してくれていたのだ。


『オダネルを批判する人たちに言いたい。
まず図書館に行け。私がしたように。
原爆とは何だったのか、何をしたのか、図書館に行って、歴史を勉強してから批判しろ。図書館に行け。あなた方は教えを受けるだろう』

 

私はそれを読み、こりゃすばらしいと思い、名前を見ると、それは私の息子だった。
息子が、私が日本に居た時と同じ、23才の頃だった。
その後、息子はこう言ってくれた。
『50年経って、僕がお父さんくらいになったら、僕が日本に行って、お父さんのやろうとしたことを引き継ぐよ。
平和のために、命をかけて、写真を伝えていくよ』」

 

70歳を過ぎてからも活動を続け、日本に来て、焼き場の少年を探しまわったそうです。

しかし、結局会えずにこの世を去っています。

 

この活動は、現在息子であるダイグ氏に受け継がれています。

そして、当時のアメリカには無かった原爆を批判する声も少なからず出てきています。

『長崎の少年を見ました。
悲しみに耐えている姿に、胸が締めつけられました。
原爆の写真で、こんなに心を動かされたことはありませんでした』

 

1枚の写真が、少年の胸を打たれる姿が多くの人の心を動かし続けています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

秋山好古

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最後の古武士

「日本騎兵の父」と称された陸軍軍人。
日露戦争では騎兵第1旅団長として出征し、第二軍に所属。沙河会戦黒溝台会戦奉天会戦などで騎兵戦術を駆使してロシア軍と戦ったことなどで知られる人物であり、日本海海戦などで活躍した海軍軍人「秋山真之」は実弟にあたる。

司馬遼太郎の「坂の上の雲」に登場して一躍有名になった。「進撃の巨人」と言う漫画のピクシルのモデルとも言われる。

経緯

少年時代は経済的な理由で、教育を受ける機会に恵まれなかったが、頭はよかったと言われている。
好古13歳の頃、小学校が設立された。この小学校では、旧士族だけでなく町人の子弟達も入学することができたが、好古は入らなかった。

理由の一つは、13歳という、小学校に入るには高い年齢。もう一つは経済的な理由である。のちに中学校もできたが、やはり経済的な余裕はなく、入学はできなかった。

しかし、好古が16歳の時、大阪に無料で学べる学校ができたという話が飛び込んできたのである。師範学校である。入学条件が19歳からであった為、大阪に行き、小学校教師として働きながら、19歳になるのを待った。そして、師範学校に入学し、1年で卒業し、名古屋の師範学校付属小学校の教師となる。

そして、東京に「陸軍士官学校」が出来ると陸軍士官学校に入学。
卒業後、少尉に任命された好古は東京鎮台騎兵第一大隊の小隊長、士官学校の教官を歴任。

そして陸軍の大学校が出来ると第1期生に選ばれる。
そこの教員がドイツのメッケルである。そこで騎兵学を学ぶ。ちなみに、日露戦争を戦った高級将官・参謀のほとんどはメッケルの教え子達である。

その後、フランスへ留学し、馬術を学ぶ。帰国後は騎兵第一大隊の中隊長になる。
それから間もなく陸軍士官学校と、付属幼稚舎の馬術教官を務めたのち、「騎兵監」の副官となると同時に騎兵少佐に昇進した。

日清戦争が始まると好古も参加、旅順攻撃などで活躍する。中佐に昇進。
日清戦争から日本に帰ってくると、好古はこれまでにたまった何か月分もの給料全額を副官の稲垣中尉に手渡し、部下達の凱旋祝いに使えと言って渡している。

その後、陸軍乗馬学校長に就任。
1897年には、「本邦騎兵用法論」という軍事論文を出し、日清戦争の体験を基に騎兵操典を改正したている。

その後、清国の義和団との戦いにも参戦、活躍する。

イギリスのヴィクトリア女王が死去した際には、追悼式に好古が出席する。
同じ年に、清国駐屯軍守備隊司令司令官に就任している。好古の評判は良く、清国の民衆も「あの将軍こそ、東方第一の大人」と言って尊敬していたと言われている。

司令官時代に、清が復興のために天津の返還を列強に希望していたことを清の実力者である袁世凱から聞き、列強は相手にしていなかったが好古がいろいろ周旋して実現させている。それで袁世凱の信用を得た好古は、清がロシアに満州全土を正式に割譲する重大機密事項を聞き、イギリスと共にそれを阻止することに成功している。

袁世凱とその家族まで、好古を信用しており、袁世凱は日清親善のため、自分の息子を日本見学に行かせている。

好古が清国から帰国が決まると、皆が分かれを惜しみ餞別に700ドルも集まったが、好古はそれを慰留民の小学校に寄付している。

その後、少将に昇進した好古は、日露戦争に参戦。
日露戦争で好古の初戦は、ゼルツヒン騎兵中佐率いる一個大隊ほどの部隊で、砲を持っていない好古らは大苦戦した。劣勢にたまりかねた将校が好古に退却を薦めた時に、最前線の機関砲陣地にも関わらず、ふて寝をして敵の退却を待ったと言われている。この滑稽な姿が兵士たちに伝わり、敵の退却まで踏ん張ることが出来た。

その後、いつくかの局地戦で勝利し、当時世界最強と言われていた「コサック騎兵隊」と対決。激戦を勝ち抜いて、日本に勝利をもたらした。

日本騎兵の父

陸軍騎兵学校を参観に来たフランス軍人に「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」と賞されているとおり、日本騎兵の父と云われた。

明治維新後、軍隊の近代化推進の一環として騎兵隊の養成を担った好古は、徹底的な研究と努力で、当時「世界最弱」と笑われていた日本陸軍騎兵隊を鍛え上げ、ついに190から05年の日露戦争でロシアが世界に誇る「コサック騎兵隊」と対決。好古は懸命に作戦を練り、事実上の日露戦争最後の陸の決戦・奉天会戦に臨み、激戦を勝ち抜いて日本に勝利をもたらした。

戦場で酒を飲んでいた。

戦闘中、変わり者の好古は水筒に入れた酒を飲んでいた。大酒豪である好古は、酒を飲んで景気をつけるのではなく、戦場の恐怖から冷静な自分を保つために酒を飲んでいたと言われる。

日清戦争では、最前線の銃弾が飛び交う中で、兵の士気を上げる為に平気な顔で騎乗したまま酒を飲んでいた。のちに、この状況を騎兵第一中隊長の河野政次郎大尉は、「顔つきもかわっていねば、様子も変わらない。恐怖もあせりも困惑もなく、ちょうど酒客がさかずきをかたむけつつ満開の花でもながめているようであった。」と述べている。

名言1

のっけから運をたのむというのは馬鹿のすることぞ

名言2

男にとって必要なのは若いころに何をしようかということであり、老いては何をしたかということである。

逸話1

フランスに騎兵留学中、当時の陸軍の最高位にあった山縣有朋にフランス軍内の高級軍人へのお使いを頼まれたことがあったが、使いの途中の電車内において酒を飲みすぎ、居眠りした揚句、置き引きにあっている。

逸話2

陸軍大学校で、学生たちに騎兵の特徴(高い攻撃力と皆無に等しい防御力)を説明する際、素手で窓ガラスを粉砕。血まみれの拳を見せ、「騎兵とはこれだ」と示した。

 

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正岡子規

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明治時代を代表する文学者の一人

正岡子規は、1867年から1902年に活躍した日本の俳人歌人国語学研究家。

俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面に亘り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治時代を代表する文学者の一人。

1890年、帝国大学(東大)哲学科に進学したものの、後に文学に興味を持ち、翌年には国文科に転科した。

大学中退後、新聞『日本』の記者となり、家族を呼び寄せそこを文芸活動の拠点とした。

1894年、に日清戦争が勃発すると、翌1895年4月、近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡ったものの、上陸した2日後に下関条約が調印されたため、同年5月、帰国の途についた。その途中で喀血して重態に陥り、療養後松山に帰ってきた。

喀血した(血を吐いた)ことから、「鳴いて血を吐く」と言われているホトトギスと自分を重ね合わせ、ホトトギスの漢字表記の「子規」を自分の俳号とした。

1897年に俳句雑誌『ホトトギス』(ほとゝぎす)を創刊し、俳句分類や与謝蕪村などを研究し、俳句の世界に大きく貢献した。

やがて病いに臥せつつ『病牀六尺』を書いたが、これは少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視し写生した優れた人生記録と、現在まで読まれている。

代表俳句

『柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺

何故横向いた写真ばかりなのか。

子規の弟子だった河東碧梧桐の著書に子規は目と目がとても離れていたという記述があり、それを気にして横を向いていると言う説や子規は結核から宿痾となる脊椎カリエスのために背筋を伸ばすことが出来ず、極端に前屈みになっており、その苦痛に耐える姿は、子規のダンディズムからは自認出来ず、結果、横を向いている写真となったという説などがある。

 

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二宮忠八

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ライト兄弟よりも早く飛行機を飛ばした日本人

英国王立航空協会のイギリスの展示場に、二宮忠八の「玉虫型飛行器」の模型を展示し、二宮忠八のことを「ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を発見した人物」と紹介しています。

 

そして、日本では4月29日は昭和天皇のお誕生日でもありますが、「飛行機の日」でもあります。

 

ライト兄弟が飛行機を飛ばしたのは、1903年12月17日です。

その12年前に飛行機を飛ばした日本人がいます。

 

二宮忠八です。

 

一体、二宮忠八とはどんな人で何をした人だったのでしょうか。

ライト兄弟が飛行機を飛ばしたのは、1903年12月17日です。

 

生い立ち

二宮忠八は、1866年に伊予国宇和郡(現:愛媛県八幡浜市矢野町)に生まれます。

 

かなり裕福な生まれだったそうです。

 

しかし、父親が事業で失敗し、家計が傾いたところに父が急死してしまいます。

そんな状況で12歳の時に、一家を支える為に町の雑貨店に奉公に出ています。

 

そして、21歳で徴兵され、丸亀歩兵第12連隊に入隊します。

 

飛行機の開発

 

23歳の時にカラスを見て、「向かい風を翼受け止めたら、空を飛ぶことが出来る」と考え、一年後の24歳で「カラス型飛行器」を完成させます。

 

そして1891年4月29日、丸亀練兵場の広場で、忠八は、自作のカラス型飛行機の飛行実験を行ないます。

 

そして、忠八の作った飛行機は実験に見事成功し、約10メートル程飛ぶことが出来ました。

その次の日には、なんと30メートルも飛ばすことに成功しています。

 

自信を付けた忠八は、いよいよ有人飛行機の設計に着手します。

 

1893年に、昆虫の飛行を研究し、4枚羽根の飛行機を完成させます。

 

この飛行機は、「玉虫型飛行器」と名付けられます。

 

「玉虫型飛行器」は、はじめから人が乗れることを前提に設計されています。
ライト兄弟の実験成功よりも10年も前のことです。

 

この飛行実験でも10メートルも飛ぶことに成功しています。

 

しかし、動力にしたいガソリンは高価で庶民が個人で買うことは難しかった時代です。

忠八は、軍でこの実権を引き取って貰えるように、レポートにまとめ、上司である参謀の長岡外史大佐と大島義昌旅団長に上申します。

 

しかし、何度足を運んでも長岡外史大佐と大島義昌旅団長も乗り気にはなりませんでした。

 

仕方がなく、自分でお金を作って飛行機を完成させるほかないと考え、忠八は、軍を退役し、大日本製薬に入社します。

 

そして、1906年には愛媛の支社長にまで出世します。

 

ある程度のお金が溜まった忠八は、1907年に精米器のための二馬力ガソリンエンジンを購入すると、再び飛行機の研究を再開します。

 

しかし、さすがに二馬力ガソリンエンジンでは、人間を乗せて飛ぶだけの馬力がありませんでした。

 

もっと、馬力のあるオートバイ用のガソリンエンジンは高価で手が届かなかったので、自作でエンジンを作ろうとしています。

 

しかし、その頃にアメリカでライト兄弟が有人飛行実験を成功させたというニュースが日本でも広まりました。

 

忠八は、これにはよほどショックだったらしく、それまで蓄えていた飛行機自作のための機材をめちゃめちゃに壊したという話もあります。

 

結局、忠八は、このときのショックから、飛行器の開発を取りやめてしまいます。
そして薬の製造の仕事にうちこみ、1909年には、マルニを創業します。

 

この時の飛行機がもし出来ていたら有人飛行機は飛んでいたのか?

 

忠八が製作しようとした飛行機は、長い間、重量が重過ぎて完成しても飛べないだろうとされてきました。

 

そこで、1991年に忠八の当時の設計図通りに、実機が作られます。

 

この飛行機は見事に成功して飛んだと言います。

 

忠八が世に認められるきっかけ

 

忠八は、たまたま同じ愛媛出身の白川義則陸軍中将(後に陸軍大将、関東軍司令官上海派遣軍司令官、陸軍大臣を歴任)と懇談する機会に恵まれます。

 

このとき、ふとしたはずみに、忘れようとして忘れられない、若き日の陸軍時代の飛行機製造の話で会話が盛り上がります。

 

忠八の言葉に関心を抱いた白川義則は、実際にその上申があったかをすぐに確認させるとともに、忠八の上申内容が技術的に正しいかどうか、専門家に検証を命じます。

 

専門家による検証によって、見事に正しいことが証明され、日本はライト兄弟よりはるか以前に、動力飛行機による飛行実験を成功させていたことが分かります。

 

白川は、陸軍その他に働きかけ、1922年に忠八を表彰します。
さらにその後も数々の表彰を忠八に授けるよう、運動しています。

 

おかげで忠八は、1925年には、安達謙蔵逓信大臣から銀瓶一対を授与され、1926年5月には、帝国飛行協会総裁久邇宮邦彦王から有功章を賜い、1927年には、勲六等に叙勲され、さらに忠八の物語は、1937年から、国定教科書に掲載されます。

 

 このことを知った長岡外史大佐(かつて忠八の上申を却下した大佐)は、わざわざ忠八のもとを訪れ、謝罪しています。

 

その後

 その後、瞬く間に世界に普及した飛行機ですが、初期の頃は飛行機事故で多く命が失われていました。

 

忠八は、自らの青春の夢をかけた飛行機で、多くの人命が失われたことに、深い悲しみを覚、飛行機事故の防止と犠牲者の冥福を祈るために、私財を投じて、京都の八幡市に「飛行神社」を設立し、自ら神主になっています。

そこで生涯、航空の安全と、航空殉難者の慰霊に一生をそそぎます。

1936年、70歳で逝去されます。

 

 世界初の有人飛行という夢に向けて研究に没頭した忠八は、近年「日本の航空機の父」、「飛行機の真の発明者」と称されるようになってきています。

 

日本語の飛行器(機)というのも、二宮忠八の造語と言われています。

日系442連隊

 

アメリカ史上最強の陸軍部隊

正式名称は、第442連隊戦闘団(英:442nd Regimental Combat Team)です。
第二次世界大戦中の米国陸軍において、日系アメリカ人のみで編成された部隊です。

 

部隊の要員数は3800名です。

 

別名を「名誉戦傷戦闘団(Purple Heart Battalion)」と言います。

それだけ多くの死傷者を出した部隊です。

ヨーロッパ戦線に投入され、延べ死傷者数9486人という激戦を繰り広げてきた部隊です。

 

その結果、アメリカ軍における最高の栄誉である名誉勲章を21個獲得(米国史上最多)、他に陸軍殊勲十字章が52個、銀星章が560個、勲功章22個、陸軍軍人章15個、銅星章4000個、樫葉賞が1,200個、名誉戦傷章9,486個、大統領部隊感状7枚の褒章(米国史上最多)という圧倒的な数を手に入れることになります。

 

大統領部隊感状の7枚目はトルーマン大統領が自らの手で連隊旗に括り付けます。これは合衆国陸軍では初めての出来事です。

 

経緯

 

日本が貧しかった為にアメリカ大陸に渡らなければいけなかった人達である日系アメリカ人は、大東亜戦争が迫るにつれて、アメリカ政府による迫害を受け始めます(財産没収や強制収容など)。

アメリカ国籍を持ったアメリカ人になっていたのにも関わらずです。

 

世界の批判をそらす為に、アメリカは1943年に日系人による部隊の編成をします。

日系人を米国人として処遇しているというポーズをとったのです。

 

強制収容所などで志願兵の募集を始めるが、日系人は日本とアメリカという2つの祖国の狭間に悩みます。

 

そこに日本国首相である東条英機首相から、日系人に手紙が届きます。

日系人は、祖国アメリカに忠誠を尽くせ」

 

アメリカと日本が戦争する間際の出来事ですが、アメリカの国籍をとったのであれば、アメリカの為に尽くすのが道義という訳です。

 

日本の武士道の極みです。

 

どこかの国の人達は70年以上日本に住みながら、日本に害をなし続けているのですが、その人達とは大違いの話です。

 

日系人は厳しい訓練ののち、部隊編制が発表されます。部隊名は第442連隊です。

 

大活躍

1943年にイタリアのサレルノでドイツ軍と戦ったのを皮切りに、多大な犠牲を出しつつもローマに向けて進軍し、大活躍をします。

ところが連戦に次ぐ連戦で、多大な犠牲を払いながらいよいよローマに入場となったとき、442部隊に停止命令が出されます。

そして、後からやってきた白人部隊がローマに入城。
ローマ解放の栄誉を手にします。

 

それにもめげずに、1944年にはフランス東部で激戦を繰り広げます。

フランスのブリュイエールの町の通りには、「第442連隊通り」という名の道があります。
それだけすさまじい激戦があったのです。

 

しかし、この時点では多大な犠牲を出して、大活躍しても名誉は与えられていません。

 

転機が訪れたのは、1944年10月です。

米国第34師団テキサス州兵によって編成されていたテキサス大隊が、ドイツ軍に包囲されるという事件が起きます。

すでに2万人の米軍がテキサス部隊救出に赴き、死んでいます。
それでもドイツ軍の重包囲はビクともしませんでした。

 

テキサス大隊は“救出困難”とされ、テキサス大隊は「失われた大隊」 (Lost battalion) とまで呼ばれてしまいます。

要するに敵軍ドイツに囲まれたアメリカ軍を見捨てなくてはいけないという状況に陥っていました。

 

そのテキサス大隊の救出命令が、442部隊に下されます。

2万人の犠牲を出しても救出出来なかったテキサス部隊を救う命令が、捨て駒部隊だった442部隊に出されます。

 

命令は、文句を言わせないように 、フランクリン・ルーズベルト大統領直命とされました。

 

442部隊は、半数近くの犠牲者を出しながら、2週間後にテキサス大隊の救出に成功します。

この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられています。

 

この442部隊はわずか2年弱の活動期間で、総計1万8千もの勲章や賞を受けています。

 

442連のら兵士が自らの血を戦場で流す事で、アメリカ人としての国家への忠誠と愛国心を示し、今まで尊敬されることの少なかった日系人の地位を、飛躍的に向上させることに成功しています。

 

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目賀田種太郎

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 1853年に静岡県の駿河藩に生まれた偉人。専修大学東京音楽学校(現:東京藝術大学)、JT日本たばこ産業株式会社)の前身である日本専売公社の創始者。社交ダンスを日本に初めて伝えるなど、幅広い分野で活躍した偉人。

明治時代に大活躍した超大物中の大物。

しかし、歴史からは全くというほど消えて無名の存在です。何があったのでしょうか。

 

生い立ち

目賀田は、1853年に駿河藩士の家に生まれ、1870年の17歳の時に国費で米国に留学します。

そして、ハーバード大学を優秀な成績で卒業し、帰国後、開成学校(現:東大)の生徒12人を連れて、再渡米しています。

 

専修大学設立

当時、日本には法学を教える学校は2つしかありませんでした。東大の法学部と司法省の法学校ですが、どちらも英語とフランス語で教えていました。

そこで目賀田は、日本で法学を教える為に専修大学を設立します。

 

日本の財政の基礎作り

その後、27歳の 1880年には、東京代言人組合(現東京弁護士会)の会長を勤め、翌年には裁判官に就任しています。

 

そして、1883年に大蔵省に入省し、1894年には大蔵主税局長に就任し、日本の税制や財政制度の基礎作りをします。

もともと貧弱だった日本の財政は、1896年に起きた日清戦争によって、さらに悪化します。

 

そこで、目賀田は日本の財政難を救う為に、たばこ事業を国営化し、日本専売公社(現JT)を創設します。この会社は、1985年に専売公社が、日本たばこ産業株式会社として民営化されるまで、実に90年間も日本の財政の一端を担うようになります。

1904年に貴族院議員に就任すると、国際連盟大使、枢密顧問官を歴任し、1926年に逝去します。享年、73歳。

 

韓国の財政の基礎作り

明治維新以降、日本が朝鮮半島に一番望んでいたのは、朝鮮半島の近代化でした。

ロシアの南下という脅威に対し、朝鮮が自立してくれないと日本まで危なくなるからです。

そこで、日本は福沢諭吉などが朝鮮の改革推進者である金玉均を支援したり、朝鮮の優秀な若者を留学生として招いて近代化を説こうします。

そして、朝鮮に、金弘集という首相が現れ、改革は一気に前進するかに見えましたが、朝鮮半島の国王が自らロシアに媚びを売り、金弘集首相を失脚(その後虐殺)させ、ことごとく近代化が失敗します。

 

そして日露戦争の最中である1904年に、日本と李氏朝鮮との間で、第一次日韓協約が締結され、「韓国の財政再建」のために日本から優秀な人材を派遣することが決まりました。

 

当時、朝鮮半島は近代化はおろか、国家財政という概念すら存在していませんでした。国家財政というのは、国王の個人財産でした。

 

そこで、日本の財政を立て直したスペシャリストである目賀田を朝鮮半島に送り込みます。第二次日韓協約後には、日本の初代首相である伊藤博文を送りこんでいます。

日本が、朝鮮半島の近代化にどれだけ真剣だったか良く分かります。

 

朝鮮半島の状況を視察した目賀田は、民衆があきれるほどに貧しいことにびっくりしたと言います。

財政とは関係がないですが、目賀田は朝鮮半島にはまっすぐ柱が立っている家がなかったので、日本から大工を招いて、まずはちゃんと柱と梁が垂直になる家の見本をこしらえたりもしています。

 

目賀田は、日韓併合後に朝鮮半島内で公正な税制の基礎を固めるため、土地調査事業を開始します。

土地の所有関係を明確にし、課税の公平性を確保するために、最低限必要な手当だからです。

これにより、日本は朝鮮から土地を奪ったという嘘が朝鮮で流れていますが、事実は違います。

 

目賀田は、土地の所有は「自己申告による」とします。

その為、ほとんどが朝鮮の支配層である両班(やんぱん)の土地となります。

そして、誰も名乗り出なかった土地をいったん没収として、朝鮮人の常人(さんみん)などにただ同然で売却しました。

(日本人に払い下げたと言っている人達もいますが、日本人が半島に渡ったのはこの土地調査事業後のことです。)

 

それ以前までは、常人(さんみん)が農作物を作っても、両班(やんぱん)が料金も払わずに勝手に持って行っていたので、農作物がほとんど出来ませでした。

 

しかし、自分の土地となり、安心して作物が作れるようになると、人口は倍近くにまで増えることとなっています。

 

目賀田は、朝鮮人が安心して生活できるようにするための公平な税制を構築し、その後、国連大使に任命されて半島を出ています。

 

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蒲生 氏郷

会津若松の生みの親

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。また、キリシタン大名でもある。

蒲生氏は藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門。六角氏の重臣蒲生賢秀の嫡男として生まれる。
信長は氏郷の才を見抜いたとされ、将来自分の娘の冬姫を娶らせる約束をし、約束通り娶っている。

1568年の北畠具教・具房との戦いで初陣を飾り、姉川の戦いを得て、第一次伊勢長嶋攻めの直前に柴田勝家の与力となり、参戦。鯰江城攻めと朝倉攻め、小谷城攻め、1574年の第二次伊勢長島攻め、1575年の長篠の戦い、1578年の有岡城の戦い、1581年の第二次天正伊賀の乱などに従軍して、武功を挙げている。

信長が本能寺の変で敗れると、安土城にいた信長の妻子を保護している。
その後は秀吉に仕え、伊勢松ヶ島12万石。秀吉の元でも手柄を立て続け、1586年に従四位下・侍従に任じられる。その後、1588年には松坂城を築城、城下町を築いた。同年、正四位下・左近衛少将に任じられ、豊臣姓を下賜された。

1590年に、伊勢より陸奥会津に移封され42万石(のちの検地・加増により92万石)の大領を与えられた。
会津においては、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。なお、「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(日野町村井)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来する。

7層の天守を有するこの城は、氏郷の幼名にちなみ、蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで鶴ヶ城と名付けられた。城下町の開発も実施し、江戸時代の会津藩の発展の礎を築いた。

1592年の文禄の役の際に体調を崩し、1595年に病死した。享年40歳。

起き上がり小法師

会津名物の「起き上がり小法師」は、義父・信長のだるま信仰に倣い、氏郷が広めたと言われている。

天下への野望

小田原征伐後、陸奥92万石を与えられたとき、氏郷は広間の柱に寄りかかり、涙ぐんでいた。
近くの者が感涙だと思い、「お気持ちはよく分かります。大変な御出世ですから。」と言ったら、氏郷は「たとえ大領であっても、奥羽のような田舎にあっては本望を遂げることなどできぬ。小身であっても、都に近ければこそ天下をうかがうことができるのだ。それが悲しいから涙が出てきたんだ。」と激しく嘆いたとされる逸話が記されている(『常山紀談』)。