日本の偉人

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秋山好古

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最後の古武士

「日本騎兵の父」と称された陸軍軍人。
日露戦争では騎兵第1旅団長として出征し、第二軍に所属。沙河会戦黒溝台会戦奉天会戦などで騎兵戦術を駆使してロシア軍と戦ったことなどで知られる人物であり、日本海海戦などで活躍した海軍軍人「秋山真之」は実弟にあたる。

司馬遼太郎の「坂の上の雲」に登場して一躍有名になった。「進撃の巨人」と言う漫画のピクシルのモデルとも言われる。

経緯

少年時代は経済的な理由で、教育を受ける機会に恵まれなかったが、頭はよかったと言われている。
好古13歳の頃、小学校が設立された。この小学校では、旧士族だけでなく町人の子弟達も入学することができたが、好古は入らなかった。

理由の一つは、13歳という、小学校に入るには高い年齢。もう一つは経済的な理由である。のちに中学校もできたが、やはり経済的な余裕はなく、入学はできなかった。

しかし、好古が16歳の時、大阪に無料で学べる学校ができたという話が飛び込んできたのである。師範学校である。入学条件が19歳からであった為、大阪に行き、小学校教師として働きながら、19歳になるのを待った。そして、師範学校に入学し、1年で卒業し、名古屋の師範学校付属小学校の教師となる。

そして、東京に「陸軍士官学校」が出来ると陸軍士官学校に入学。
卒業後、少尉に任命された好古は東京鎮台騎兵第一大隊の小隊長、士官学校の教官を歴任。

そして陸軍の大学校が出来ると第1期生に選ばれる。
そこの教員がドイツのメッケルである。そこで騎兵学を学ぶ。ちなみに、日露戦争を戦った高級将官・参謀のほとんどはメッケルの教え子達である。

その後、フランスへ留学し、馬術を学ぶ。帰国後は騎兵第一大隊の中隊長になる。
それから間もなく陸軍士官学校と、付属幼稚舎の馬術教官を務めたのち、「騎兵監」の副官となると同時に騎兵少佐に昇進した。

日清戦争が始まると好古も参加、旅順攻撃などで活躍する。中佐に昇進。
日清戦争から日本に帰ってくると、好古はこれまでにたまった何か月分もの給料全額を副官の稲垣中尉に手渡し、部下達の凱旋祝いに使えと言って渡している。

その後、陸軍乗馬学校長に就任。
1897年には、「本邦騎兵用法論」という軍事論文を出し、日清戦争の体験を基に騎兵操典を改正したている。

その後、清国の義和団との戦いにも参戦、活躍する。

イギリスのヴィクトリア女王が死去した際には、追悼式に好古が出席する。
同じ年に、清国駐屯軍守備隊司令司令官に就任している。好古の評判は良く、清国の民衆も「あの将軍こそ、東方第一の大人」と言って尊敬していたと言われている。

司令官時代に、清が復興のために天津の返還を列強に希望していたことを清の実力者である袁世凱から聞き、列強は相手にしていなかったが好古がいろいろ周旋して実現させている。それで袁世凱の信用を得た好古は、清がロシアに満州全土を正式に割譲する重大機密事項を聞き、イギリスと共にそれを阻止することに成功している。

袁世凱とその家族まで、好古を信用しており、袁世凱は日清親善のため、自分の息子を日本見学に行かせている。

好古が清国から帰国が決まると、皆が分かれを惜しみ餞別に700ドルも集まったが、好古はそれを慰留民の小学校に寄付している。

その後、少将に昇進した好古は、日露戦争に参戦。
日露戦争で好古の初戦は、ゼルツヒン騎兵中佐率いる一個大隊ほどの部隊で、砲を持っていない好古らは大苦戦した。劣勢にたまりかねた将校が好古に退却を薦めた時に、最前線の機関砲陣地にも関わらず、ふて寝をして敵の退却を待ったと言われている。この滑稽な姿が兵士たちに伝わり、敵の退却まで踏ん張ることが出来た。

その後、いつくかの局地戦で勝利し、当時世界最強と言われていた「コサック騎兵隊」と対決。激戦を勝ち抜いて、日本に勝利をもたらした。

日本騎兵の父

陸軍騎兵学校を参観に来たフランス軍人に「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」と賞されているとおり、日本騎兵の父と云われた。

明治維新後、軍隊の近代化推進の一環として騎兵隊の養成を担った好古は、徹底的な研究と努力で、当時「世界最弱」と笑われていた日本陸軍騎兵隊を鍛え上げ、ついに190から05年の日露戦争でロシアが世界に誇る「コサック騎兵隊」と対決。好古は懸命に作戦を練り、事実上の日露戦争最後の陸の決戦・奉天会戦に臨み、激戦を勝ち抜いて日本に勝利をもたらした。

戦場で酒を飲んでいた。

戦闘中、変わり者の好古は水筒に入れた酒を飲んでいた。大酒豪である好古は、酒を飲んで景気をつけるのではなく、戦場の恐怖から冷静な自分を保つために酒を飲んでいたと言われる。

日清戦争では、最前線の銃弾が飛び交う中で、兵の士気を上げる為に平気な顔で騎乗したまま酒を飲んでいた。のちに、この状況を騎兵第一中隊長の河野政次郎大尉は、「顔つきもかわっていねば、様子も変わらない。恐怖もあせりも困惑もなく、ちょうど酒客がさかずきをかたむけつつ満開の花でもながめているようであった。」と述べている。

名言1

のっけから運をたのむというのは馬鹿のすることぞ

名言2

男にとって必要なのは若いころに何をしようかということであり、老いては何をしたかということである。

逸話1

フランスに騎兵留学中、当時の陸軍の最高位にあった山縣有朋にフランス軍内の高級軍人へのお使いを頼まれたことがあったが、使いの途中の電車内において酒を飲みすぎ、居眠りした揚句、置き引きにあっている。

逸話2

陸軍大学校で、学生たちに騎兵の特徴(高い攻撃力と皆無に等しい防御力)を説明する際、素手で窓ガラスを粉砕。血まみれの拳を見せ、「騎兵とはこれだ」と示した。

 

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