日本の偉人

日本の偉人を紹介していきます。

二宮忠八

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ライト兄弟よりも早く飛行機を飛ばした日本人

英国王立航空協会のイギリスの展示場に、二宮忠八の「玉虫型飛行器」の模型を展示し、二宮忠八のことを「ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を発見した人物」と紹介しています。

 

そして、日本では4月29日は昭和天皇のお誕生日でもありますが、「飛行機の日」でもあります。

 

ライト兄弟が飛行機を飛ばしたのは、1903年12月17日です。

その12年前に飛行機を飛ばした日本人がいます。

 

二宮忠八です。

 

一体、二宮忠八とはどんな人で何をした人だったのでしょうか。

ライト兄弟が飛行機を飛ばしたのは、1903年12月17日です。

 

生い立ち

二宮忠八は、1866年に伊予国宇和郡(現:愛媛県八幡浜市矢野町)に生まれます。

 

かなり裕福な生まれだったそうです。

 

しかし、父親が事業で失敗し、家計が傾いたところに父が急死してしまいます。

そんな状況で12歳の時に、一家を支える為に町の雑貨店に奉公に出ています。

 

そして、21歳で徴兵され、丸亀歩兵第12連隊に入隊します。

 

飛行機の開発

 

23歳の時にカラスを見て、「向かい風を翼受け止めたら、空を飛ぶことが出来る」と考え、一年後の24歳で「カラス型飛行器」を完成させます。

 

そして1891年4月29日、丸亀練兵場の広場で、忠八は、自作のカラス型飛行機の飛行実験を行ないます。

 

そして、忠八の作った飛行機は実験に見事成功し、約10メートル程飛ぶことが出来ました。

その次の日には、なんと30メートルも飛ばすことに成功しています。

 

自信を付けた忠八は、いよいよ有人飛行機の設計に着手します。

 

1893年に、昆虫の飛行を研究し、4枚羽根の飛行機を完成させます。

 

この飛行機は、「玉虫型飛行器」と名付けられます。

 

「玉虫型飛行器」は、はじめから人が乗れることを前提に設計されています。
ライト兄弟の実験成功よりも10年も前のことです。

 

この飛行実験でも10メートルも飛ぶことに成功しています。

 

しかし、動力にしたいガソリンは高価で庶民が個人で買うことは難しかった時代です。

忠八は、軍でこの実権を引き取って貰えるように、レポートにまとめ、上司である参謀の長岡外史大佐と大島義昌旅団長に上申します。

 

しかし、何度足を運んでも長岡外史大佐と大島義昌旅団長も乗り気にはなりませんでした。

 

仕方がなく、自分でお金を作って飛行機を完成させるほかないと考え、忠八は、軍を退役し、大日本製薬に入社します。

 

そして、1906年には愛媛の支社長にまで出世します。

 

ある程度のお金が溜まった忠八は、1907年に精米器のための二馬力ガソリンエンジンを購入すると、再び飛行機の研究を再開します。

 

しかし、さすがに二馬力ガソリンエンジンでは、人間を乗せて飛ぶだけの馬力がありませんでした。

 

もっと、馬力のあるオートバイ用のガソリンエンジンは高価で手が届かなかったので、自作でエンジンを作ろうとしています。

 

しかし、その頃にアメリカでライト兄弟が有人飛行実験を成功させたというニュースが日本でも広まりました。

 

忠八は、これにはよほどショックだったらしく、それまで蓄えていた飛行機自作のための機材をめちゃめちゃに壊したという話もあります。

 

結局、忠八は、このときのショックから、飛行器の開発を取りやめてしまいます。
そして薬の製造の仕事にうちこみ、1909年には、マルニを創業します。

 

この時の飛行機がもし出来ていたら有人飛行機は飛んでいたのか?

 

忠八が製作しようとした飛行機は、長い間、重量が重過ぎて完成しても飛べないだろうとされてきました。

 

そこで、1991年に忠八の当時の設計図通りに、実機が作られます。

 

この飛行機は見事に成功して飛んだと言います。

 

忠八が世に認められるきっかけ

 

忠八は、たまたま同じ愛媛出身の白川義則陸軍中将(後に陸軍大将、関東軍司令官上海派遣軍司令官、陸軍大臣を歴任)と懇談する機会に恵まれます。

 

このとき、ふとしたはずみに、忘れようとして忘れられない、若き日の陸軍時代の飛行機製造の話で会話が盛り上がります。

 

忠八の言葉に関心を抱いた白川義則は、実際にその上申があったかをすぐに確認させるとともに、忠八の上申内容が技術的に正しいかどうか、専門家に検証を命じます。

 

専門家による検証によって、見事に正しいことが証明され、日本はライト兄弟よりはるか以前に、動力飛行機による飛行実験を成功させていたことが分かります。

 

白川は、陸軍その他に働きかけ、1922年に忠八を表彰します。
さらにその後も数々の表彰を忠八に授けるよう、運動しています。

 

おかげで忠八は、1925年には、安達謙蔵逓信大臣から銀瓶一対を授与され、1926年5月には、帝国飛行協会総裁久邇宮邦彦王から有功章を賜い、1927年には、勲六等に叙勲され、さらに忠八の物語は、1937年から、国定教科書に掲載されます。

 

 このことを知った長岡外史大佐(かつて忠八の上申を却下した大佐)は、わざわざ忠八のもとを訪れ、謝罪しています。

 

その後

 その後、瞬く間に世界に普及した飛行機ですが、初期の頃は飛行機事故で多く命が失われていました。

 

忠八は、自らの青春の夢をかけた飛行機で、多くの人命が失われたことに、深い悲しみを覚、飛行機事故の防止と犠牲者の冥福を祈るために、私財を投じて、京都の八幡市に「飛行神社」を設立し、自ら神主になっています。

そこで生涯、航空の安全と、航空殉難者の慰霊に一生をそそぎます。

1936年、70歳で逝去されます。

 

 世界初の有人飛行という夢に向けて研究に没頭した忠八は、近年「日本の航空機の父」、「飛行機の真の発明者」と称されるようになってきています。

 

日本語の飛行器(機)というのも、二宮忠八の造語と言われています。