日系442連隊
アメリカ史上最強の陸軍部隊
正式名称は、第442連隊戦闘団(英:442nd Regimental Combat Team)です。
第二次世界大戦中の米国陸軍において、日系アメリカ人のみで編成された部隊です。
部隊の要員数は3800名です。
別名を「名誉戦傷戦闘団(Purple Heart Battalion)」と言います。
それだけ多くの死傷者を出した部隊です。
ヨーロッパ戦線に投入され、延べ死傷者数9486人という激戦を繰り広げてきた部隊です。
その結果、アメリカ軍における最高の栄誉である名誉勲章を21個獲得(米国史上最多)、他に陸軍殊勲十字章が52個、銀星章が560個、勲功章22個、陸軍軍人章15個、銅星章4000個、樫葉賞が1,200個、名誉戦傷章9,486個、大統領部隊感状7枚の褒章(米国史上最多)という圧倒的な数を手に入れることになります。
大統領部隊感状の7枚目はトルーマン大統領が自らの手で連隊旗に括り付けます。これは合衆国陸軍では初めての出来事です。
経緯
日本が貧しかった為にアメリカ大陸に渡らなければいけなかった人達である日系アメリカ人は、大東亜戦争が迫るにつれて、アメリカ政府による迫害を受け始めます(財産没収や強制収容など)。
アメリカ国籍を持ったアメリカ人になっていたのにも関わらずです。
世界の批判をそらす為に、アメリカは1943年に日系人による部隊の編成をします。
日系人を米国人として処遇しているというポーズをとったのです。
強制収容所などで志願兵の募集を始めるが、日系人は日本とアメリカという2つの祖国の狭間に悩みます。
そこに日本国首相である東条英機首相から、日系人に手紙が届きます。
「日系人は、祖国アメリカに忠誠を尽くせ」
アメリカと日本が戦争する間際の出来事ですが、アメリカの国籍をとったのであれば、アメリカの為に尽くすのが道義という訳です。
日本の武士道の極みです。
どこかの国の人達は70年以上日本に住みながら、日本に害をなし続けているのですが、その人達とは大違いの話です。
日系人は厳しい訓練ののち、部隊編制が発表されます。部隊名は第442連隊です。
大活躍
1943年にイタリアのサレルノでドイツ軍と戦ったのを皮切りに、多大な犠牲を出しつつもローマに向けて進軍し、大活躍をします。
ところが連戦に次ぐ連戦で、多大な犠牲を払いながらいよいよローマに入場となったとき、442部隊に停止命令が出されます。
そして、後からやってきた白人部隊がローマに入城。
ローマ解放の栄誉を手にします。
それにもめげずに、1944年にはフランス東部で激戦を繰り広げます。
フランスのブリュイエールの町の通りには、「第442連隊通り」という名の道があります。
それだけすさまじい激戦があったのです。
しかし、この時点では多大な犠牲を出して、大活躍しても名誉は与えられていません。
転機が訪れたのは、1944年10月です。
米国第34師団テキサス州兵によって編成されていたテキサス大隊が、ドイツ軍に包囲されるという事件が起きます。
すでに2万人の米軍がテキサス部隊救出に赴き、死んでいます。
それでもドイツ軍の重包囲はビクともしませんでした。
テキサス大隊は“救出困難”とされ、テキサス大隊は「失われた大隊」 (Lost battalion) とまで呼ばれてしまいます。
要するに敵軍ドイツに囲まれたアメリカ軍を見捨てなくてはいけないという状況に陥っていました。
そのテキサス大隊の救出命令が、442部隊に下されます。
2万人の犠牲を出しても救出出来なかったテキサス部隊を救う命令が、捨て駒部隊だった442部隊に出されます。
命令は、文句を言わせないように 、フランクリン・ルーズベルト大統領直命とされました。
442部隊は、半数近くの犠牲者を出しながら、2週間後にテキサス大隊の救出に成功します。
この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられています。
この442部隊はわずか2年弱の活動期間で、総計1万8千もの勲章や賞を受けています。
442連のら兵士が自らの血を戦場で流す事で、アメリカ人としての国家への忠誠と愛国心を示し、今まで尊敬されることの少なかった日系人の地位を、飛躍的に向上させることに成功しています。