日本の偉人

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名も無き少年

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冒頭の写真は、戦後長崎市の浦上川周辺の焼き場で撮られたものです。

 

原爆が投下された長崎市の遺体の焼き場で、少年は亡くなった弟を背負い、直立不動で火葬の順番を待っている。

 

足は靴などなく、裸足です。

 

この写真を撮ったアメリカ海軍カメラマンのジョー・オダネル氏は、朝日新聞創刊120周年記念写真展でこう回想しています。

 

佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
すると、白いマスクをかけた男達が目に入りました。
男達は、60センチ程の深さにえぐった穴のそばで、作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を、石灰の燃える穴の中に、次々と入れていたのです。

10歳ぐらいの少年が、歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は、当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子は、はっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという、強い意志が感じられました。
しかも裸足です。
少年は、焼き場のふちまで来ると、硬い表情で、目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊は、ぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。

少年は焼き場のふちに、5分か10分、立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に、初めて気付いたのです。
男達は、幼子の手と足を持つと、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。

 (中略)

真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を、赤く照らしました。
その時です。
炎を食い入るように見つめる少年の唇に、血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年が、あまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に、赤くにじんでいました。

夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま、焼き場を去っていきました。」

 

 

美智子皇后はこの写真を見て、「その姿が今も目に残っています。」と宮内庁のHPでおっしゃっておられました。

 

この見た人すべての人の心を動かす一枚は、この写真を撮ったアメリカ海軍カメラマンのジョー・オダネル氏の心をも動かしていました。

 

占領軍として、長崎に入ったオダネル氏の任務は、原爆の破壊力を記録することでした。

 

この写真は軍の命令に背き、ひそかに撮った30枚の写真の内の1つです。

 

戦後43年経って、封印していた写真をオダネル氏は公開します。

 

オダネル氏は、真珠湾攻撃によって復讐心に燃え、海兵隊に志願した人でした。

 

その彼が、原爆投下後の長崎に入って見たものは彼の考えそのものを変える衝撃的なものでした。

「私は、灰と瓦礫につまづきながら、爆心地を見渡した。
衝撃的だった。
そこには、人が暮らした文明の跡形も無かった。
自分が地球に立っているとは思えないほどの破壊だった」

 

「この世のものとは思えないものを見た。
それは本当に酷かった。
死んだ人、子どもたち、その母親、間もなく死ぬ人、飢えている人、そして原爆症……。

あまりにも多くの傷ついた人々を撮影しているうちに、日本人に持っていた憎しみが消えていった。
憎しみから哀れみに変わった。
なぜ人間が、同じ人間に、こんな恐ろしいことをしてしまったのか。

私には理解できない」

 

「被爆者たちの体をうごめくウジ、助けを求める声、鼻をつく異臭。

私は、長崎で見た悪夢のような光景を、思い出すまいとした。
しかしその光景は頭から離れず、私を苛み続けた。
あの時のアメリカの決断は、正しかったと言えるだろうか。

眠ろうとしても眠れない。
悪夢が終らないのだ。
写真を見たくなかった。
見ると、あの1945年の時に引き戻されて、長崎の悪夢がよみがえってしまう。

見ないという他に、私にはなにもできなかった」

 

オダネル氏自身も被爆していたらしく、背骨の変形や皮膚がんに悩まされていたそうです。

 

そして、1990年にアメリカの各地で写真展を開催し始めます。

 

しかし、現在もそうですが、当時のアメリカでは、原爆は正当な行為という意見がほとんどで、オダネル氏の活動は批判の対象となり、家には嫌がらせの手紙が来るようになり、妻エレンさんはオダネル氏の行動を理解出来ずに離婚しました。

 

「どうか誤解しないでほしい。
私はアメリカ人だ。
アメリカを愛しているし、国のために戦った。
しかし、母国の過ちを、無かったことにできなかった。
退役軍人は、私のことを理解してくれないだろう。
私は、あの場所で居て、死の灰の上を歩き、この目で惨状を見たのだ。
確かに日本軍は、中国や韓国に対してひどいことをした。
しかし、あの小さな子どもたちが、何かしただろうか。

戦争に勝つために、本当に、彼らの母親を殺す必要があっただろうか。

1945年、あの原爆は、やはり間違っていた。

それは、100年経っても、間違いであり続ける。

絶対に間違っている。絶対に。
歴史はくり返すと言うが、くり返してはいけない歴史もあるはずだ」

 

しかし、全てが彼の敵にまわった訳ではありませんでした。

 

「アメリカ人が好むと好まざるとに関わらず、8月6日と9日は毎年やってくる。

嫌がらせの手紙や投稿が、どんどん集まってくる。
『お前は裏切り者だ』
『アメリカが嫌なら日本に行け』と。

ある時、娘が教えてくれた。
『お父さんの活動に、味方する投稿がひとつだけあるよ。
それはとってもポジティブな内容で、お父さんは正しいことをしたって言ってる』と。

その投稿は、私への批判の声に、反論してくれていたのだ。


『オダネルを批判する人たちに言いたい。
まず図書館に行け。私がしたように。
原爆とは何だったのか、何をしたのか、図書館に行って、歴史を勉強してから批判しろ。図書館に行け。あなた方は教えを受けるだろう』

 

私はそれを読み、こりゃすばらしいと思い、名前を見ると、それは私の息子だった。
息子が、私が日本に居た時と同じ、23才の頃だった。
その後、息子はこう言ってくれた。
『50年経って、僕がお父さんくらいになったら、僕が日本に行って、お父さんのやろうとしたことを引き継ぐよ。
平和のために、命をかけて、写真を伝えていくよ』」

 

70歳を過ぎてからも活動を続け、日本に来て、焼き場の少年を探しまわったそうです。

しかし、結局会えずにこの世を去っています。

 

この活動は、現在息子であるダイグ氏に受け継がれています。

そして、当時のアメリカには無かった原爆を批判する声も少なからず出てきています。

『長崎の少年を見ました。
悲しみに耐えている姿に、胸が締めつけられました。
原爆の写真で、こんなに心を動かされたことはありませんでした』

 

1枚の写真が、少年の胸を打たれる姿が多くの人の心を動かし続けています。