日本の偉人

日本の偉人を紹介していきます。

蒲生 氏郷

会津若松の生みの親

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。また、キリシタン大名でもある。

蒲生氏は藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門。六角氏の重臣蒲生賢秀の嫡男として生まれる。
信長は氏郷の才を見抜いたとされ、将来自分の娘の冬姫を娶らせる約束をし、約束通り娶っている。

1568年の北畠具教・具房との戦いで初陣を飾り、姉川の戦いを得て、第一次伊勢長嶋攻めの直前に柴田勝家の与力となり、参戦。鯰江城攻めと朝倉攻め、小谷城攻め、1574年の第二次伊勢長島攻め、1575年の長篠の戦い、1578年の有岡城の戦い、1581年の第二次天正伊賀の乱などに従軍して、武功を挙げている。

信長が本能寺の変で敗れると、安土城にいた信長の妻子を保護している。
その後は秀吉に仕え、伊勢松ヶ島12万石。秀吉の元でも手柄を立て続け、1586年に従四位下・侍従に任じられる。その後、1588年には松坂城を築城、城下町を築いた。同年、正四位下・左近衛少将に任じられ、豊臣姓を下賜された。

1590年に、伊勢より陸奥会津に移封され42万石(のちの検地・加増により92万石)の大領を与えられた。
会津においては、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。なお、「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(日野町村井)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来する。

7層の天守を有するこの城は、氏郷の幼名にちなみ、蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで鶴ヶ城と名付けられた。城下町の開発も実施し、江戸時代の会津藩の発展の礎を築いた。

1592年の文禄の役の際に体調を崩し、1595年に病死した。享年40歳。

起き上がり小法師

会津名物の「起き上がり小法師」は、義父・信長のだるま信仰に倣い、氏郷が広めたと言われている。

天下への野望

小田原征伐後、陸奥92万石を与えられたとき、氏郷は広間の柱に寄りかかり、涙ぐんでいた。
近くの者が感涙だと思い、「お気持ちはよく分かります。大変な御出世ですから。」と言ったら、氏郷は「たとえ大領であっても、奥羽のような田舎にあっては本望を遂げることなどできぬ。小身であっても、都に近ければこそ天下をうかがうことができるのだ。それが悲しいから涙が出てきたんだ。」と激しく嘆いたとされる逸話が記されている(『常山紀談』)。