日本の偉人

日本の偉人を紹介していきます。

小野妹子

f:id:japonismlove:20160104131434j:plain

最初の遣隋使

飛鳥時代の政治、外交家。名は「妹子」とあるが 男性である。
607年に聖徳太子の命令によって、遣隋使として支那にわたった。国書を隋の皇帝にわたし、日本と支那が対等の関係で国交を開こうとした。一時は流刑にさらされるなどされたが、のちに恩赦により、復活をはたしている。なお、608年にも再び隋にわたった。

聖徳太子が隋に送った手紙

聖徳太子小野妹子に持たせた手紙はあまりにも有名です。【日出処天子至書日没処天子無恙云々】(日出処の天子、書を没する処の天子に致す。つつがなきや…)これを読んだ隋の煬帝は激しく怒ります。
日本を「日の出る国」、支那を「日が落ちる国」と表現したこと、もう一つは支那皇帝にしか使用されていなかった「天子」という言葉を「日出処の天子」と使ったことです。

聖徳太子にしてみれば、隋と初めて交易を持つ際に、隋と対等の関係でいきましょうという意味が込められていたと言われています。

華道の祖

小野妹子は、聖徳太子の守り本尊でもある如意輪観音を守るよう命ぜられ、坊を建設して朝と夕、毎日仏前に花を供えました。これが池坊流のはじまりとされ、華道の祖とも言われています。

 

f:id:japonismlove:20150110104156j:plain

 

浅井長政

f:id:japonismlove:20160104131043j:plain

近江北部一帯を治めていた戦国大名

妻は織田信長の妹、お市の方。わずか29歳で死去した、近江の名君である。

当時の浅井氏は六角善賢に従属していたが、六角氏から独立。その後は六角義賢を相手に戦い、これを撃退し領土を広め、名君の片鱗を見せ始める。

また長政は織田家と同盟を結び、信長の妹であるお市の方を妻にした。

しかし信長が同盟の条件を破って朝倉氏を攻め始めると、長政は長年親しかった朝倉を重視し、織田との同盟を捨てて金ヶ崎で信長を攻めた。これは信長にとって非常に意外だったようで、命からがら金ヶ崎より逃げ延びている。

その後、両軍は姉川にて対決。長政は織田軍の13段の構えのうち11段を破る猛攻を見せたが、結局は織田・徳川軍に敗北している。
その後浅井家は反信長包囲網に加わり、毛利・武田・朝倉・一向宗勢力らと共に信長を苦しめることになるのだが、それぞれの勢力の足並みが揃わないうちに武田信玄が病死し、朝倉家は一乗谷に滅んだ。

1573年、織田軍は浅井の本拠地である小谷城を取り囲んだ。長政はお市や娘達を逃がすと、父と共に自害した。享年29。辞世は伝わっていない。

 

f:id:japonismlove:20150110104156j:plain

滝川一益

f:id:japonismlove:20151209140758j:plain

 

織田四天王の一人

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。甲賀の里出身の忍者だったという説もある。 鉄砲の名人。

「先駆けは一益、殿(しんがり)も一益」と言われるほどの勇将

織田家においては伊勢方面の攻略を担当。信長の次男信雄とともに北畠氏討伐など。1574年には、伊勢長島の一向一揆を討伐、殲滅。伊賀攻めにも功を上げ、北伊勢五郡を支配。蟹江城と兼ねて、長島城主にもなり、信長の重臣の座に加わる。武田攻めには先鋒として参加。武田勝頼を天目山に破った功で、上州および信濃の二郡を与えられ、厩橋城(前橋)に移り関東管領を号す。信長の五人の軍団長の一人にまで数えられる。

信長の死

信長が本能寺の変で打ち取られた際、一益の重臣たちが信長の死を隠して京に向かうことを促したが、関東諸将の人質をすべて返し、信長の死を打ち明けて、反勢力である北条氏と戦った。
しかし、関東管領になってから3か月しかたっておらず、信長の死で部下も浮き足立っており、北条に敗北する。

伊勢に逃げ帰った時は、信長の跡目を決める清州会議が終わっており、決定的に出る幕を失った。

1583年、柴田勝家織田信孝らと組み、羽柴秀吉と戦ったが、一益自身は篭城し孤軍奮闘したものの、勝家が敗北したため降伏する事となる。
秀吉に許され、近江5千石に封じられた後は、小牧・長久手の戦いで秀吉につき、伊勢と尾張に兵を挙げ、家康軍と戦った。しかし蟹江城を包囲され、降伏。これを恥じて出家し、亡命。1586年、不遇のうちに越前で死去。62歳。

 

f:id:japonismlove:20151209140852j:plain

 

 

石田三成

 

f:id:japonismlove:20151203102354j:plain

関ヶ原の合戦における西軍の主導者

安土桃山時代戦国大名。豊臣政権の五奉行の筆頭としても知られる。
豊臣秀吉長浜城の主となった際に父・兄と共に秀吉に仕官し、自身は小姓として仕える。
信長が本能寺で亡くなると、秀吉の側近として次第に台頭していく。

島左近

秀吉の関白就任に伴い、三成は従五位下治部少輔に叙任される。当時名将として名高かった島左近を知行の半分を与えて召し抱えたと言われている。秀吉はこれに驚愕、そして賞賛し、左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋入りの羽織を与えた。

豊臣政権下

三成は堺奉行、博多奉行を歴任し、小田原征伐にも参加した。
その後、文禄の役では唐入り(朝鮮出兵)の総奉行を務め、明との講和などに積極的役割を果たした。その際、現地と秀吉との連絡役という立場が福島正則黒田長政などの反発を招いている。

その後、近江7万石、近江佐和山19万4000石が秀吉から与えられた。
秀吉の命令により、キリシタン弾圧を行うが、捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りをなだめて信徒達が処刑されないように奔走するなどの情誼を見せたといわれている。

第3次の唐入り時に福島正則らと大将になる予定だったが、秀吉が没した為に実現していない。

秀吉死後

秀吉死後に豊臣政権は豊臣秀頼が継いだが、徳川家康が次第に台頭していく。
家康に匹敵する勢力を持っていた前田利家が病死すると、豊臣政権は家康を抑えきれなくなっていった。

前田利家の病死直後、三成と対立関係にあった武断派加藤清正福島正則黒田長政細川忠興、浅野幸長、池田輝政加藤嘉明の7将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件がおきる。
家康の仲裁により、和談が成立するが、三成は五奉行から退隠させられる。前田利家病死・三成の蟄居により、家康の専横は活発になっていった。

 

f:id:japonismlove:20150110104156j:plain

関ヶ原の合戦

1600年7月、三成は家康を排除すべく、上杉家の家老・直江兼続らと密かに挙兵の計画を図り、家康が会津征伐に向かった際に挙兵した。

大谷吉継を説得し仲間にした後、諸大名の妻子を人質として大阪城内に入れる為軍勢を送りこんだ。しかし、加藤清正の妻などには逃げられ、細川忠興の妻・ガラシャには自殺された為、人質作戦は中止された。

毛利輝元を西軍の総大将として大阪城に入城させ、家康配下の鳥居元忠伏見城を苦戦しながらも落とし、諸大名に参集を呼びかけた。
三成は、大垣城に入り美濃で家康を食い止める予定が、家康が戻ってくるのが思ったよりも早かったのと、味方の小早川秀秋が思いがけず松尾山に陣取った為に、関ヶ原で家康に決戦を挑むことになった。

当初は優勢であったが、小早川秀秋脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなり、三成は逃走して伊吹山に逃れたが、その後捕まり、斬首された。

大一大万大吉

三成が使っていた家紋。「大一大万大吉」というのは「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」という意味とされる一方、近代以前にその意を示した文献はなく、本来は「一」を「かつ」と読み、縁起の良い文字を重ねたものともされる。

無双の才覚

太閤検地においては検地尺を定めるなど、大きな実績を残した。豊臣家奉行の筆頭格であり、優れた行政能力を持った官僚であったという評価は定着している。世の人々が三成を「無双の才覚」と讃えていたと言われている。

三杯の茶(三献茶)

伊吹山の観音寺に、鷹狩りの帰りにのどの渇きを覚えた秀吉が立ち寄り、寺小姓に茶を所望した際、寺小姓は最初に大きめの茶碗にぬるめの茶を、次に一杯目よりやや小さい茶碗にやや熱めの茶を、最後に小振りの茶碗に熱い茶を出した。
まずぬるめの茶で喉の渇きを鎮めさせ、後の熱い茶を充分味わわせようとする寺小姓の細やかな知恵配り・心遣いに感じ入った秀吉は彼を家来として採用した。

それが後の石田三成である、という逸話がある。

大谷吉継との友情

秀吉の茶会で、一口ずつ飲み次へ茶碗を回す回し飲みがされた。
らい病を患っていた大谷吉継は飲む振りのみで茶碗を回そうとしたが、顔から出た膿が茶に落ちてしまった。
以降の諸大名は茶に口を付けるのを嫌がり飲む振りだけで茶碗を回していったが、三成は躊躇わず茶を飲み干した。それ以降二人の間には一層深い友情が生まれたという。

大谷吉継関ヶ原の合戦では、家康には勝てないと分かっていながら、三成に頼まれた為、三成側に立って家康と戦った。

人物

関ヶ原の戦いで敗走した三成は、自身の領地である近江国の古橋村に身を潜めた。
その後、与次郎太夫という百姓の招きで、山中の岩窟に身を隠した。

与次郎はこの時、徳川軍による咎めの責任を一身に引き受けるために妻を離縁し、刑死を覚悟で三成を介抱した。
三成はこの義侠心に感じ入り、与次郎に咎めが及ばないよう、与次郎を説得して自分の居場所を徳川軍へ告げさせた。

徳川軍を代表して三成の捜索に当たっていた田中吉政は、近辺の村々に対し、三成を生け捕りにした場合にはその村の年貢を永久に免除する、生け捕りにせず殺した場合にはその者に賞金百両を与える、逆に三成を匿った場合には当事者のみならずその親族および村人全員に至るまで処刑すると触れを出していたが、最終的には与次郎が三成の説得に従って自首したため、村は虐殺を免れている。

 

f:id:japonismlove:20151203112407j:plain

 

f:id:japonismlove:20141221231859j:plain

井伊直弼

日本の開国を断行した男

近江彦根藩の第15代藩主。
幕末期の江戸幕府にて大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺された(桜田門外の変)。

第15代彦根藩藩主

井伊直弼は遅咲きで、17歳から32歳までの15年間を、捨扶持の部屋住みとして過ごした後、第14代藩主の兄の養子と言う形で家督を継ぐ。その15年間に、茶人として大成し、和歌や鼓、禅、槍術、居合術を学び、聡明さを早くから示していた。
藩主に就任すると、藩政改革を行い、名君と呼ばれ、江戸城では溜間詰上席として、将軍継嗣問題と日米修好通商条約調印問題をめぐり存在感を示す。

黒船来航

1853年に黒船が来航すると、江戸湾防備に活躍。
元々は開国に反対であったが、「開国と富国強兵こそ日本が生き残る道」と考え、開国を断行する。それに対し、尊皇攘夷派は開国に反対し、幕府を倒そうと動き始めました。
井伊直弼は日本を二分(開国派と攘夷派)しないために、尊王攘夷派(そんのうじょういは)の処刑にふみきるのである(安政の大獄)。

 

f:id:japonismlove:20150110104156j:plain

安政の大獄

第14代徳川将軍の後継者争いで、紀州藩徳川慶福(家茂)を推す南紀派と一橋慶喜を支持する水戸系の一橋派が対立した。また、米国総領事タウンゼント・ハリスが、日米修好通商条約の調印を江戸幕府に迫っていた。
条約はやむを得ないが、調印には朝廷の勅許が必要と言うことになったが、梅田雲浜尊皇攘夷派の工作によって、元々攘夷派の孝明天皇から勅許を得ることは出来なかった。
そんな中、南紀派の井伊直弼大老に就任し、無勅許の条約調印と家茂の将軍継嗣指名を断行した。
これに反対した水戸前藩主の徳川斉昭を始めとして、梅田雲浜や公家の家臣にまで謹慎、捕縛、処刑などを行った。そして、梅田雲浜と交流があったということで、吉田松陰を処刑した(これが最後の処刑者)。

連座したものは100人以上にのぼった。

桜田門外の変

安政の大獄に先立って、孝明天皇は「戊午の密勅」と呼ばれる密勅を水戸藩に下し、井伊直弼の排斥を呼びかけた。

将軍の臣下であるはずの水戸藩へ朝廷から直接勅書が渡されたということは、幕府がないがしろにされ威信を失墜させられたということであったため、水戸藩に対し戊午の密勅の返納を催促した。この催促は数度にわたって続けられ、勅を幕府に返納することにした。
ところが水戸藩の士民(特に過激派)が激昂して勅の返納を阻止あるいは朝廷に直接返納すべきとして混乱する。井伊は返納しないと水戸藩を改易するとまで述べたことが、水戸藩氏を憤慨させ、水戸藩浪士と薩摩藩藩士に襲撃を受け首を刎ねられた。

一期一会

一期一会(いちごいちえ)とは、茶道に由来することわざで、『あなたとこうして出会っているこの時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものです。だから、この一瞬を大切に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう』と言う意味の、千利休の茶道の筆頭の心得である。
井伊直弼は、これを著書『茶湯一会集』巻頭に「一期一会」という言葉にして世の中に広めた。

 

f:id:japonismlove:20141221231859j:plain

 

雑賀孫一

信長の天敵

1534年から1589年に活躍した雑賀衆という一揆集団の棟梁。雑賀孫市とも書く。本名は鈴木孫一。

16世紀当時としては非常に多い数千丁単位の数の鉄砲で武装しており、きわめて高い軍事力を持って傭兵集団としても活躍した。
石山合戦において雑賀衆を率いて石山本願寺へ入り、織田信長の軍勢を苦しめた。

その後、関ヶ原の戦い伏見城の戦い)では西軍本隊に属して、鳥居元忠を討ち取る活躍を見せる。

戦後、浪人を経て水戸藩に仕官した。

 

f:id:japonismlove:20150110104156j:plain

 

雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける

戦国時代、実際に言われていた言葉です。戦国最強の鉄砲傭兵集団として、恐れられていました。当時、「雑賀を制すものは全国を制す」 とさえ言われています。

信長との対立

織田信長は、宗教 「一向宗」 の総本山である 「本願寺」 と対立、「織田家」 と 「本願寺家」 は全面戦争に突入します。
雑賀衆 にはこの 「一向宗」 の門徒(信者)が多く、一向宗 のお寺も数多く建てられており、本願寺の本拠地である 大阪(石山) にも近かったため、本願寺とは友好的な関係にありました。 そのため、「雑賀衆」 は 本願寺 の要請を受け 織田家 の軍勢と戦う事になりました。

本願寺家 を支援した 雑賀衆 は大活躍する事になります。戦いで 雑賀鉄砲衆 の指揮を取ったのが、伝説の鉄砲使い 「雑賀孫一」 です。
信長と本願寺との戦いは10年も続き、信長はその戦いで大活躍をしていた雑賀衆を先に叩くことを決意します。
信長は豊臣秀吉明智光秀などの主力を率い、なんと10万人の兵力で雑賀衆の里に押し寄せます。さすがの雑賀衆も降伏し、信長との対立は終わります。

 

f:id:japonismlove:20141228200510j:plain

f:id:japonismlove:20141221231859j:plain

紀伊國屋文左衛門

1669年から1734年に活躍した商人である。略して「紀文」(きぶん)と呼ばれ、「紀文大尽」と言われた。

文左衛門が20代の頃、紀州みかんや塩鮭で富を築いた話が伝えられる。上野寛永寺根本中堂の造営で巨利を得て幕府御用達の材木商人となるも、深川木場を火災で焼失、材木屋は廃業した。
また、幕府から十文銭の鋳造を請け負ったが、文左衛門の造った十文銭はとても質が悪く、五代将軍綱吉の死と同時にこの十文銭は1年で通用が停止されてしまった為大きな損失を被い商売への意欲を失ってしまった、と言われている。

晩年は浅草寺内で過ごしたのちに深川八幡に移り、宝井其角らの文化人とも交友。「千山」の俳号を名乗った。1734年に死去したとされる。

みかん船伝説

文左衛門が20代のある年、紀州は驚くほどミカンが大豊作だった。
収穫されたミカンを江戸に運ぼうとしたが、その年の江戸への航路は嵐に閉ざされていた。江戸へ運べなくなり余ったミカンは上方商人に買い叩かれ、価格は暴落した。また江戸では、紀州から船が来ない事でミカンの価格は高騰していた。

紀州では安く、江戸では高い。これに目をつけたのが文左衛門だった。
早速文左衛門は玉津島明神の神官で舅の高松河内から大金を借りてミカンを買い集め、家に残ったぼろい大船を直し、荒くれの船乗り達を説得し命懸けで嵐の太平洋に船出した。大波を越え、風雨に耐えて何度も死ぬ思いをしながら、文左衛門はついに江戸へたどり着く事が出来た。

この時の様子が「沖の暗いのに白帆が見ゆる、あれは紀ノ国ミカン船」とカッポレの唄に残った。

ミカンが不足していた江戸でミカンは高く売れて、嵐を乗り越えて江戸の人たちの為に頑張ったと、江戸っ子の人気者になった。 また、大坂で大洪水が起きて伝染病が流行っていると知った文左衛門は、江戸にある塩鮭を買えるだけ買って先に上方で「流行り病には塩鮭が一番」と噂を流し上方に戻った。
噂を信じた上方の人々は我先にと塩鮭を買い求め文左衛門が運んできた塩鮭は飛ぶように売れた。

紀州と江戸を往復し大金を手にした文左衛門は、その元手で江戸に材木問屋を開き、江戸城をも焼いた明暦の大火の時には木曾谷の材木を買占めて一気におよそ百万両を手にした。

こうして文左衛門はしがない小商人から豪商へと出世、富と名声を掴んだと言われている。

 

f:id:japonismlove:20150110104156j:plain

 

f:id:japonismlove:20141228200510j:plain

 

f:id:japonismlove:20141221231859j:plain