日本の偉人

日本の偉人を紹介していきます。

武内宿禰(たけうちすくね)

古代の英雄

記紀に伝わる古代日本の人物。景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣である。紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族27氏の祖ともされる。武内宿禰は忠臣とされることから、日本銀行券の肖像として5種類に採用されている。「武内」宿禰(すくね)ではなく、「武」内宿禰であるとも言われている。

 

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ヤマトタケルと同一人物?

景行紀(『書紀』が描く景行天皇の時代)には、短命と長寿、英雄と脇役という対照的な2人のヤマトの「武」が日本列島の東西に旅だつ様子が描かれている。

1人は、熊襲征伐や東夷征討に国内を東奔西走し、ヤマトへの帰還を目前にして齢30で夭折した古代の英雄、ヤマトタケル。『書紀』では日本「武」と記される。

もう1人は、北陸及び東方諸国を巡察し、その後、成務朝に大臣となり、神功皇后とともに九州、新羅遠征、その後、応神朝を経て仁徳朝まで生き抜いたとされる、偉大なる脇役、ヤマトの「武」、タケウチノスクネである。『書紀』では「武」内宿禰と記される。

二人とも大和国の「武」なのである。二人の活躍が同時でなく、交互に活躍されていること、ヤマトタケルの活躍の後、武内宿禰が国の棟梁に任命されていること、誕生年が同じであることなどから同一人物であるという説があります。

長寿の神

武内宿禰命は360余歳の長寿であったため長寿の神とされる(実際は97歳だったと推定されている)。
また、神社で初めて拝殿が日本の紙幣の図案となり、その後も数度社殿や祭神が図案となったため、金運・財宝の神ともされる。

 

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徳川吉宗

暴れん坊将軍

江戸幕府第8代将軍。将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主を務めた。「米将軍」の呼び名で知られ、江戸幕府の財政を建て直した名君として人気の高い将軍。

1684年、第2代紀州藩主・徳川光貞の四男として生まれる。1705年、父と2人の兄が相次いで亡くなったため、22歳で第5代紀州藩主に就任。紀州藩財政再建に努めた。

1716年、江戸幕府第7代将軍・徳川家継が8歳で早世し徳川将軍家が絶えたため、御三家から養子として迎え入れられ第8代将軍に就任。享保の改革と呼ばれる財政再建を基本とした幕政改革を行い、窮乏していた江戸幕府の財政を安定させ、その後の幕政改革の見本ともなった。「米将軍」の呼び名は特に米相場の安定に尽力したことに由来する。

長男・家重に将軍職を譲ったのちも大御所として実権を握り続けた。1751年薨去

 

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享保の改革

江戸の三大改革の中で最も成功したとされる。
デフレが進む中、支出を切り詰め、諸大名と農民への増税により益々デフレが進んだ。それにより、「極度のデフレ経済」「物価下落と増税による庶民の困窮」「貧富の格差の拡大」「人口増加のストップ」などが起こる。
そこで吉宗はリフレーション政策「元文の改鋳」を行ない国内の通貨供給量が増大した結果、長期間継続したデフレから脱却に成功した。

この景気回復と質素倹約によって後世まで名君として見事に名を残した。

その他にも、江戸町火消しを設置しての火事対策、小石川養生所を設置しての医療政策、新田開発など公共政策、大岡忠相の登用、また訴訟のスピードアップのため公事方御定書の制定、洋書輸入の一部解禁、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革を実行した。

倹約

自ら質素倹約に努め、着物は木綿に限定、食事は朝夕の2回のみとし、献立も「一汁三菜」とした。
家臣が華美な服装をしていると、一切返答せず、じっとその服装に目を注いで暗に注意を促したと言われている。

また、江戸城の経費削減のために大奥の女性を50名ほど解雇する必要が生じた際、吉宗はあえて美女だけを解雇し、容貌のよくない者を大奥に残した。
美女だけを解雇した理由について、吉宗本人は「美女であれば他に働き口も多く、良い縁談もあるから、解雇しても問題はない」と語ったという。
ただし、美女と呼ばれる女性たちは、華美な衣装や豪華な所持品などに多額の費用をかける傾向が強く、吉宗の定めた質素倹約の方針に反するため、吉宗はそのような浪費癖のある女性たちを選んで解雇したと見ることもできる。

 

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松下 幸之助

経営の神様

1894年から1989年に活躍した実業家、発明家。「経営の神様」とも称されている人物。パナソニック(旧社名:松下電器産業松下電器製作所、松下電気器具製作所)を一代で築き上げた経営者。晩年は松下政経塾を立ち上げ政治家の育成にも意を注いだ。

長者番付1位を10回

16歳の時に大阪電燈(後の関西電力)に入社し、7年間勤務した後、妻や友人5人で電球ソケットの製造販売事業を開始(この時のメンバーには後に三洋電機を創業することとなる井植歳男がいる)。
1918年に事業拡大に伴い「松下電気器具製作所」を創業。
1935年に「松下電器産業株式会社」と法人化した。

第二次世界大戦中は、下命で軍需品の生産に協力するが、戦後ただちにGHQによって制限会社に指定され、幸之助・歳男以下役員の多くが戦争協力者として公職追放処分を受ける。間もなく制限会社指定を解除され、1947年に社長に復帰する。1950年以降、長者番付で10回全国1位を記録。

 

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名言1

失敗の多くは、成功するまでにあきらめてしまうところに、原因があるように思われる。
最後の最後まで、あきらめてはいけないのである。

名言2

商売とは、感動を与えることである。

名言3

商売や生産はその商店や製作所を繁栄させることにあらず
その働き、活動によって社会を富ましめるところにその目的がある。

名言4

売る前のお世辞より
売った後の奉仕、
これこそ永久の客を作る。

 

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華岡青洲

和歌山が生んだ医聖

独自に開発した麻酔薬を使って、世界で初めて乳がんの摘出手術に成功させた人物。

妻と実母が人体実験に自ら申し出て、妻の失明を伴ったが念願の麻酔薬「通仙散」を完成させた。

その後、1804年、大和国五條村の藍屋勘という老婆が青洲のもとを訪れた。当時、不治の病と恐れられた乳がんであった。乳房は女性の急所といわれ、傷つけると死ぬと信じられていた時代である。
さすがの青洲も治療を躊躇するが、「たとえ、生命を落とすようなことがあっても本望」という勘の言葉に励まされ、ついに手術を行うことを決意。
通仙散を使って全身麻酔を行い、見事、乳がんの摘出に成功した。

これは、記録に残る限り、世界最初の麻酔手術で、アメリカのロングが行ったエーテル麻酔の手術より38年も前のことだった。青洲の偉業は、国際外科学会(アメリカ・シカゴ市)附属の栄誉会館において、「世界の外科医療に貢献した人物」として、賛辞とともに紹介されている。

 

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植芝盛平

合気道の創始者

1883年から1969年に活躍した日本の武道家。合気道の創始者。大東流を初めとする柔術・剣術など各武術の修行成果を、大本教神道などの研究から得た独自の精神哲学で纏めなおし、『和合』、『万有愛護』等を理念とする合気道を創始した。
身長156㎝ながら大相撲力士を投げ飛ばすなど幾つもの武勇伝で知られ、また老境に至っても多くの“神技”を示し「不世出の達人」と謳われた。

力士を投げ飛ばす

演武会であまりの技の流麗さに「ヤラセではないのか」と会場からもざわめきが起こり、それを察した植芝氏はその場で観覧していた元大関の力士・天竜を呼び、「こんなじじいにここまでできるわけないと疑っておいでなら投げて御覧なさい」と腕を差し出した。 天竜は「このじじい何を言っていやがる」と思い切り投げてやるつもりで腕をつかんだ瞬間、鉄棒をつかんだような感覚が起こり、彼も相撲界で長くやってきて色々な経験をしているから「コレはいかん」とすぐに感づいたらしい。瞬間、あっという間に投げ飛ばされていたそうです。

 

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武蔵坊弁慶

義経伝説の英傑

平安時代末期の僧兵。源義経の郎党。講談などでは義経に仕える怪力無双の荒法師として名高い。

義経との出会い

弁慶は比叡山に入るが乱暴が過ぎて追い出されてしまう。その後、四国から播磨国でも同じように追い出され、やがて、弁慶は京で千本の太刀を奪おうと悲願を立てる。

弁慶は道行く人を襲い、通りかかった帯刀の武者と決闘して999本まで集めたが、あと一本ということころで、五条大橋(『義経記』では清水観音境内)で笛を吹きつつ通りすがる義経と出会う。弁慶は義経が腰に佩びた見事な太刀に目を止め、太刀をかけて挑みかかるが、欄干を飛び交う身軽な義経にかなわず、返り討ちに遭った。弁慶は降参してそれ以来義経の家来となった。

 

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義経の忠臣

弁慶は義経の忠実な家来として活躍し、平家討伐に功名を立てる。
兄の源頼朝と対立した義経が京を落ちるのに同行。山伏に姿を変えた苦難の逃避行で、弁慶は智謀と怪力で義経一行を助ける。義経一行は、奥州にたどり着き、藤原秀衡のもとへ身を寄せる。だが、秀衡が死ぬと、子の藤原泰衡は頼朝の威を恐れて、父の遺言を破り、義経主従を衣川館に襲った。多数の敵勢を相手に弁慶は、義経を守って堂の入口に立って薙刀を振るって戦い、雨の様な敵の矢を受けて立ったまま死んだとされ、「弁慶の立往生」と後世に語り継がれた。

弁慶の泣き所

弁慶ほどの豪傑でもここを打てば涙を流すほど痛いとされる急所のこと。最もよく知られているのが脛(膝頭の下から足首の上まで)。

 

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弁慶の七つ道具

弁慶が持っていたと伝えられる七種の武器(薙刀、鉄の熊手、大槌、大鋸、さすまた、つく棒、そでがらめ)から転じて、7個で一式のものを七つ道具と呼ぶようになり、「選挙の七つ道具」、「探偵の七つ道具」のような使われ方をされる。

内弁慶に外地蔵

「陰弁慶」ともいう。家の中では強気になって威張り散らすが、外では意気地が無くおとなしい人間のこと。転じて、特定の場面においてのみ威勢を張る様を以って「~弁慶」等と用いる。

 

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南方熊楠

歩く百科事典

1867年から1941年に活躍した博物学者、生物学者(特に菌類学)、民俗学者。菌類学者としては粘菌の研究で知られている。
18言語を解し、「歩く百科事典」と呼ばれ、彼の言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の逸話を残している。

個人の研究でネイチャーに51度載る

天文学会の懸賞論文に出した初論文「極東の星座」がいきなり1位入選し、英を代表する科学雑誌『ネイチャー』に掲載された。「ミナカタ」の名は一躍知られるようになり、その後も「ミツバチとジガバチに関する東洋の見解」「拇印考」など51回も論文が紹介される。
そして、掲載記事数51本はいまだ抜かれていない。

学歴もなく、どの研究所にも属さず、特定の師もおらず、ただの民間の一研究者。何もかもが独学で肩書きナシ。国家の支援も全く受けずに、これほど偉大な業績を残した人間が実在した。

「肩書きがなくては己れが何なのかもわからんような阿呆共の仲間になることはない」(南方熊楠

驚異的な記憶力

子供の頃から驚異的な記憶力を持つ神童だったという南方は、常軌を逸した読書家でもあり、蔵書の豊富な家で100冊を越える本を見せてもらい、それを家に帰って記憶から書写するという特殊な能力をもっていたと言われている。

孫文と親友だった

ロンドンで亡命中の孫文と出会い、意気投合。
「願わくはわれわれ東洋人は一度西洋人を挙げてことごとく国境外へ放逐したきことなり」と述べたと言われている。孫文は南方に会いに和歌山まで来ている。

勉強熱心

捕まった監獄でも新種の粘菌を発見している。

 

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