日本の偉人

日本の偉人を紹介していきます。

陸奥宗光

カミソリ大臣

1844年から1897年に活躍した政治家、外交官。紀州藩藩士。明治初期に行われた版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、地租改正に大きな影響を与えた。また、カミソリ大臣と呼ばれ、伊藤内閣の外務大臣として不平等条約の改正(条約改正)に辣腕を振るった。

幕末

1858年、水本成美に学び、土佐藩坂本龍馬長州藩桂小五郎木戸孝允)・伊藤俊輔伊藤博文)などの志士と交友を持つようになる。1863年、勝海舟の神戸海軍操練所に入り、1867年には坂本龍馬海援隊(前身は亀山社中)に加わるなど、終始坂本と行動をともにした。坂本龍馬は陸奥の才能を称賛し、「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」と評価している。

 

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維新

戊辰戦争に際し、局外中立を表明していたアメリカと交渉し、甲鉄艦として知られるストーンウォール号の引き渡し締結に成功し、その金策にも成功する。
その後、兵庫県知事、神奈川県令、地租改正局長などを歴任するが、薩長藩閥政府の現状に憤激し、官を辞し、和歌山に帰った。
大阪会議で政府と民権派が妥協し、その一環で設置された元老院議官となる。

政界へ復帰

西南戦争にかかわったとされ投獄されたが、特赦によって出獄が許されると、伊藤博文の勧めもありヨーロッパに留学する。そこで、西洋近代社会の仕組みを勉強する。

1886年に帰国し、外務省に出仕した。駐米公使となり、駐米公使兼駐メキシコ公使として、メキシコ合衆国との間に日本最初の平等条約である日墨修好通商条約を締結する。
その後、第1次山縣内閣の農商務大臣に就任。この時の秘書は原敬である。また、閣僚初の衆議院議員も務めている。

そして、第二次伊藤内閣で外務大臣に就任。イギリスとの間に日英通商航海条約を締結。 幕末以来の不平等条約である治外法権の撤廃に成功する。
以後、アメリカ合衆国とも同様の条約に調印、ドイツ、イタリア、フランスなどとも同様に条約を改正した。陸奥が外務大臣の時代に、不平等条約を結んでいた15ヶ国すべてとの間で条約改正(治外法権の撤廃)を成し遂げた。

一方、朝鮮で甲午農民戦争が始まると清の出兵に対抗して派兵。
豊島沖海戦により日清戦争を開始。イギリス、ロシアの中立化にも成功した。この開戦外交はイギリスとの協調を維持しつつ、対清強硬路線をすすめる川上操六参謀次長の戦略と気脈を通じたもので「陸奥外交」の名を生んだ。

戦勝後は伊藤博文とともに全権として1895年、下関条約を調印し、戦争を日本にとって有利な条件で終結させた。しかし、ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉に関しては、遼東半島を清に返還するもやむを得ないとの立場に立たされる。

1897年肺結核の為、死去。享年54歳。

 

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樋口季一郎

2万人のユダヤ人を救った男

イスラエルには世界的に傑出したユダヤ人の名を代々登録し、その功績を永遠に顕彰する「ゴールデン・ブック」という本がある。その中に、モーゼ、メンデルスゾーンアインシュタインなどの傑出したユダヤの偉人達にまじって、「偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口」とあり、その次に樋口の部下であった安江仙江大佐の名が刻まれている。淡路島生まれの陸軍軍人。

オトポール事件

1937年12月26日、第1回極東ユダヤ人大会が開かれた際、関東軍の認可の下、3日間の予定で開催された同大会に、陸軍は「ユダヤ通」の安江仙弘陸軍大佐をはじめ、当時ハルピン陸軍特務機関長を務めていた樋口(当時陸軍少将)らを派遣した。
この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチス・ドイツの反ユダヤ政策を、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と、間接的に激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた。

1938年3月、ユダヤ人18名がナチスの迫害下から逃れるため、ソ連満州国の国境沿いにある、シベリア鉄道・オトポール駅(現在のザバイカリスク駅)まで避難していた。しかし、彼らは亡命先に到達するために通らなければならない満州国の外交部が入国の許可を渋り、足止めされていた。
樋口はこの惨状に見かねて、ユダヤ人に対し、直属の部下であった河村愛三少佐らとともに即日給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施、更に膠着状態にあった出国斡旋、満州国内への入植斡旋、上海租界への移動の斡旋等を行った。

その後も難民は増え続け、JTBの記録によると、満州から入国したドイツ人(ユダヤ人)は、1938年、245名となっている。松井重松(当時、案内所主任)の回想録には「週一回の列車が着くたび、20人、30人のユダヤ人が押し掛け、4人の所員では手が回わらず、発券手配に忙殺された」と記されている。

オトポール事件については、当初2万人のユダヤ系避難民が救われたとされ、あまりの数の多さに事件の存在自体が疑問視されていた。これは樋口の回顧録の誤植から流布した数字であり、樋口の遺品から18名の写真が発見されるなど、真相が解明されつつある。

 

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ソ連戦闘

1942年8月1日、札幌に司令部を置く北部軍(のち北方軍・第5方面軍と改称)司令官として北東太平洋陸軍作戦を指揮。アッツ島玉砕、キスカ島撤退を指揮し、キスカ島撤退作戦では救援艦隊の木村少将の要請を容れ、大本営の決裁を仰がずに独断で在留軍に、小銃を含めたあらゆる武器の海中投棄を指示して、乗船時間を短縮し撤退の成功に貢献した。

敗戦後にも、占守島樺太における対ソビエト軍の戦闘を指揮し、占守島の戦いではソ連軍千島侵攻部隊に痛撃を与えた。

そのためスターリンは当時軍人として札幌に在住していた樋口を「戦犯」に指名した。
世界ユダヤ協会はいち早くこの動きを察知して、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、在欧米のユダヤ人金融家によるロビー活動も始まった。

世界的な規模で樋口救出運動が展開された結果、ダグラス・マッカーサーソ連からの引き渡し要求を拒否して、樋口の身柄を保護した。

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山名宗全

応仁の乱の西軍総大将

室町時代の武将、守護大名。但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。名は持豊(もちとよ)。宗全は法名応仁の乱の西軍の総大将として知られ、西軍の諸将からは宗全入道または赤入道と呼ばれていた。一休宗純は宗全のことを「業は修羅に属し、名は山に属す」と風刺し、毘沙門天の化身だと言っている。

宗全は山名時熙の次男で兄・持煕が足利義教の勘気にふれ、廃嫡されたことにより山名氏の家督を継いだ。山名氏は曽祖父・時氏、祖父・時義の代には全国66ヵ国の内12ヵ国の守護職を得て六分一殿、六分一家衆と呼ばれていたが、明徳の乱により山名氏の勢力は大きく衰退していた。

しかしながら、嘉吉の乱足利義教が赤松満祐に討たれると侍所頭人として、赤松氏追討の主力となり、乱後、赤松氏の旧領を得るなど、山名氏の領国は増え、六分一殿といわれた時代に迫る勢いを示した。
持豊は拡大した分国を維持するため娘を細川勝元に嫁がせるなど慎重に保全策を巡らしたが、細川氏が山名氏を牽制するために赤松家の再興を支援するようになると次第に対立するようになり、同じ頃、三管領の畠山家、斯波家では家督相続問題が起こり、畠山政長、斯波義敏が細川勝元を頼ったため、彼らと対立する畠山義就、斯波義廉は持豊を頼ることとなった。

 

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さらには足利将軍家の継嗣争いが加わり、勝元が足利義視(義政の弟)の後見人を引き受け、日野富子が対抗して宗全に足利義尚(義政の子)の後見を依頼したことにより両者の対立は決定的なものとなり、1467年に応仁の乱が勃発した。

宗全の西軍は当初こそ「公方の御敵」とされ、劣性であったが、大内政弘が大軍を率いて上洛、西軍方に加わったことにより、両軍の勢力は互角となり、戦局は長期化の様相を呈するようになった。膠着状態が続く中、未曽有の争乱は地方にも拡大、勝敗が決まらないままに、1473年3月に宗全が病死、続いて勝元も5月に病死した。翌年5月にそれぞれの家督を継いだ山名政豊と細川政元との間で和睦が成立したが、世はすでに戦国時代に入っていた。

 

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エルトゥールル号遭難事件

テレビ朝日でやっていたので、今日はこちらの話を書きます。

 

エルトゥールル号遭難事件

1890年の出来事です。   
トルコ皇帝ハミル二世が日本に派遣した特使一行を乗せたトルコ軍艦エルトゥールル号が、帰路、暴風雨に遭遇してしまいます。   
そして、和歌山県串本町沖合で、岩礁に衝突し遭難しました。

この遭難事故で、トルコ特使を含む518名が死亡してしまいましたが、死を免れた69名は、地元漁民の手厚い救護により一命を取りとめます。
このとき串本の村人たちは、台風により漁ができず、自分たちの食べるものさえ無くなってしまうという状況にあったにもかかわらず、非常時のために飼っていた、最後に残ったにわとりまでも、トルコ人に食べさせ介護しました。

貧しい村人たちにとっても、ほんとうに命がけの救助と介護だったのです。
そして遭難者の遺体を引き上げ、丁重に葬った。

 

この話は、和歌山県知事から明治天皇に伝えられます。
後日、遭難者たちは明治天皇の命により軍艦2隻でトルコに送り届けられました。

後日談~山田寅次郎

この話に同情した山田寅次郎という人物が、一民間人として新聞社などの協力を得ながら全国を歩いて 義捐金を集め、それを携えてトルコに渡ります。

 

1892年、イスタンブールに上陸した山田寅次郎は、外務大臣サイド・パシャに義捐金を手渡し、皇帝アビドゥル・ハミト二世に拝謁します。

山田寅次郎はトルコ側の要請で、そのままトルコに留まり、日本語を教えるとともに、日本とトルコの友好親善に尽くしました。

この時の教え子の中に、後にトルコ共和国初代大統領となる、ケマル・パシャがいます。
そのケマル・パシャこそ、トルコ革命の指導者であり、トルコ共和国の初代大統領、トルコ共和国の建国の父といわれるトルコの大英雄です。

さらに続きます。~イラン・イラク戦争

時代は下って1985年。
エルトゥールル号遭難から95年後のことです。

イラクサダム・フセイン大統領が、「今から40時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機をすべて打ち落とす」と宣言します。
3月17日のことです。

 

イランに住んでいた日本人は、慌ててテヘラン空港に向かおうとしたのだけれど、緊急事態です。
どの飛行機も満席で乗ることができません。

世界各国は自国民の救出をするために救援機を出したのだけれど、残念ながら日本政府はすばやい決定ができなかった。
自衛隊機の出動は、海外への派兵は憲法違反にあたると、当時日本の最大野党であった社会党(いまの社民党)が猛反対したのです。

そして、日本人だけがテヘランに取り残された。
宣言の刻限は、刻々と迫ってきます。

空港にいた日本人は、パニックに陥る。



そのとき、一機のトルコ航空の飛行機が到着します。

トルコ航空の飛行機は、日本人216名全員を乗せて、成田に向かって飛び立った。
タイムリミットまで、わずか1時間15分前のできごとでした。

このとき、なぜトルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかったのです。

後日、元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は次のように語ります。

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エルトゥールル号の事故に際して、日本人がしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。

私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。
トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。
今の日本人が知らないだけです。

それでテヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。
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さらに後日談はこちらから(画像付)

http://japonismlove.com/kinki/wakayama/erutururu.html

阿久悠

昭和を代表する作詞家

放送作家、詩人、作詞家、小説家。本名、深田 公之(ふかだ ひろゆき)。淡路島出身。

1970年代にオーディション番組の「スター誕生!」で発掘されたアイドルたちの楽曲の作詞を手掛ける一方、演歌、アニソン、特撮ソングまで多くの楽曲の作詞を手掛け、一時代を築いた。『スター誕生!』の特徴的な企画は各芸能プロダクションの担当者が目に付いた出場者に札を挙げるというものであったが、あのスタイルを考えたのは阿久自身である。「密室でタレントを選考する過程を全てガラス張りにして芸能界を裸にしよう」と提案した。

生涯、作詞した曲は5,000曲以上と言われており、提供した作詞曲のシングル総売上枚数は約6831.9万枚という大記録を残している(2013年に秋元康に抜かれるまで1位だった)。

1977年6月20日付のオリコンシングルチャートで、阿久悠作詞の「勝手にしやがれ」(歌・沢田研二)が首位を獲得する。それ以降、12月5日付首位の「ウォンテッド (指名手配)」(歌・ピンク・レディー)まで、25週連続で阿久悠作品が首位を獲得。ほぼ半年にわたり首位を取り続けるという前人未到の記録を打ち立てた。またこの年は他に、「北の宿から」(歌・都はるみ)、「青春時代」(歌・森田公一とトップギャラン)なども首位を獲得。阿久悠作品は年間39週(約9か月)首位を獲得した。

小説家としても優秀で、映画化もされた『瀬戸内少年野球団』は直木賞候補にまでなり、『殺人狂時代ユリエ』で第2回横溝正史ミステリ大賞を受賞。長編小説『ラヂオ』は第38回ギャラクシー賞ラジオ部門優秀賞を受賞する。2007年に尿道癌になり死去。70歳だった。

代表となる曲は、「また逢う日まで」尾崎紀世彦、「北の宿から」都はるみ、「勝手にしやがれ」「時の過ぎゆくままに」沢田研二、「UFO」「ウォンテッド (指名手配)」「サウスポー」「モンスター」ピンク・レディー、「雨の慕情」八代亜紀、「もしもピアノが弾けたなら」西田敏行、「津軽海峡・冬景色石川さゆり、「宇宙戦艦ヤマトささきいさお西武ライオンズ福岡ダイエーホークスの球団歌、「デビルマンのうた」、「どうにもとまらない」「狙いうち山本リンダ、「学園天国」フィンガー5、「君よ八月に熱くなれ」高岡健二など多数。

 

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嘉納治五郎

講道館柔道の創始者

東大卒後、学習院教授等を経て東京高等師範学校長を多年務める。また講道館を創設し、その館長として柔道の研究指導に当たり、「柔道の父」と仰がれる。また「日本の体育の父」とも呼ばれる。貴族院議員。日本最初のIOC(国際オリンピック委員会)委員。

1881年柔術二流派の技術を取捨選択し、崩しの理論などを確立して独自の「柔道」を作る。翌1882年、囲碁・将棋から段位制を取り入れ講道館を設立した。

治五郎は柔術のみならず剣術や棒術、薙刀術などの他の古武道についても自らの柔道と同じように理論化することを企図し、各師範を招いて講道館の有段者を対象に「古武道研究会」を開き、剣術や棒術を学ばせた。また教育者としても優秀で、学習院教頭、筑波大学校長、熊本大学校長なども務め、日本一の学校であるとされる灘高校、灘中学の設立にも関わっている。

中学人留学生の受け入れにも努め、牛込に弘文学院(校長・松本亀次郎)を開いた。のちに文学革命の旗手となる魯迅もここで学び、治五郎に師事した。

日本のスポーツの道を開き、1909年には日本人初のIOC国際オリンピック委員会)委員となる。1911年に大日本体育協会(現・日本体育協会)を設立してその会長となる。1912年、日本が初参加したストックホルムオリンピック於いては団長として参加した。

1936年のIOC総会で、1940年の東京オリンピック(後に戦争の激化により返上)招致に成功した。 1938年のカイロ(エジプト)でのIOC総会からの帰国途上の5月4日に死去。79歳。

 

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白洲次郎

従順ならざる唯一の日本人

日本の官僚、実業家。終戦連絡中央事務局次長、経済安定本部次長、貿易庁長官、東北電力会長などを歴任した。
連合国軍占領下の日本で吉田茂の側近として活躍し、終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長を経て、商務省の外局として新設された貿易庁の長官を務めた。連合国軍最高司令官総司令部と渡り合う。

1902年芦屋市に白洲文平・芳子夫妻の二男として生まれる。ケンブリッジ大学クレアカレッジに聴講生として留学後、父の会社の倒産により帰国。その後、英字新聞の記者となり、妻正子と知り合い結婚。それから日本水産の取締役などを経て、1945年に東久邇宮内閣の外務大臣に就任した吉田の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任し、GHQとの交渉の窓口となる。白洲はイギリス仕込みの英語で主張すべきところは頑強に主張し、GHQ某要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた。

同年には憲法改正問題で、佐々木惣一京都帝国大学教授に憲法改正の進捗を督促する。1946年2月13日、松本烝治国務大臣が中心として起草した憲法改正案(松本案)がGHQの拒否にあった際に、GHQ草案(マッカーサー案)を提示されている。15部の英文の憲法草案をすぐ検討するようにと出て行ったという(一時退席)。日本国側が憲法改正案を持ってGHQを訪ねて10分ほどの出来事だったと言われている。
15分後、白州次郎が庭で日光浴をしていたアメリが側を迎えにいくと、ホイットニーは「われわれは戸外に出て、原子力エネルギーの暖を取っているところです」と語った。日光を原子力エネルギーと表現したのだろうが、これは原爆を連想させる。太陽を背にして座ったり、原子力エネルギーという言葉を使ったり、アメリカ側は心理的圧力をかけてきた。

3月2日、日本政府の意見がまとまらないうちに、白州次郎は翻訳者とともにホイットニーに呼び出された。そこで、GHQ内の一室において、一晩で憲法草案の全文を日本語に翻訳するよう要求された。結局、翻訳には3日かかったが、白州次郎らは一睡もせずこの大仕事を成し遂げた。日本国憲法は、国会を従来と同じく二院制にした以外は、ほぼGHQの草案通りになった。日本語訳は、専門の法律学者の手を経ることなく、白州次郎と外務省翻訳官らがGHQ内にカンヅメになってつくったものである。「従順ならざる唯一の日本人」と称された白州次郎も、憲法に関してはGHQの強硬姿勢に従わざるをえなかった。

同年3月に終連次長に就任。8月、経済安定本部次長に就任。1947年6月18日、終連次長を退任する。1948年12月1日、商工省に設立された貿易庁の初代長官に就任する。汚職根絶などに辣腕を振るい、商工省を改組し通商産業省(のち経済産業省)を設立した。その辣腕ぶりから「白洲三百人力」と言われる。

1951年サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行した。この時受諾演説の原稿を外務省の役人がGHQの了解を得た上でGHQに対する美辞麗句を並べかつ英語で書いたことに白洲が激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、急遽日本語に書き直したのだという。原稿は随行員が手分けして和紙に毛筆で書いたものを繋ぎ合わせた長さ30m、直径10cmにも及ぶ巻物となり、内容には奄美群島、沖縄並びに小笠原諸島等の施政権返還が盛り込まれた(この話は異論あり)。

その後、外務省顧問を務め、吉田退陣後は政界入りを望む声もあったが政治から縁を切り、実業界に戻った。その後、東北電力会長、荒川水力電気会長、大沢商会会長、大洋漁業(現マルハニチロホールディングス)、日本テレビ、ウォーバーグ証券(現UBS)の役員や顧問を歴任した。83歳没。遺書は 「葬式無用 戒名不用」のみ書いてあったという。

 

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日本で一番カッコいい男

「僕らはあなたに憧れる」というインターネット上の投票では、ダントツの1位になっている。ちなみに、第3位が坂本竜馬だが、白洲次郎はその10倍の票を獲得している。

白洲次郎の名言

「おれたちは戦争に負けたかもしれないが、奴隷になったわけじゃない!」

日本国憲法について

日本国憲法白洲次郎らが翻訳したもので、第1条の「天皇は日本国の象徴であり」の「象徴」と言う訳は白洲次郎が決めたと言われている。その彼が終戦2年後の1946年に唯一の著書『プリンシプルのない日本』で、次のように書いている。

憲法を改正するということ自体は私は賛成である。現在の新憲法は占領中米国側から「下しおかれた」もので、憲法なんてものは、国民のもり上った意志でつくるべき本質のものだと思う。占領もすんで独立を回復した今日、ほんとの国民の総意による新憲法が出来るのが当然ではないかと思う。.  長く大事に持っているものは人に貰ったものより自分自身の苦心の結晶に限る。今でも憲法は「どうせアメリカさんの貰いものだ」なんていう様な言葉をよく聞くが、聞くたびにほんとに我々がつくった我々の憲法がほしいものだと思う。

 

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エピソード1

GHQ民政局長ホイットニー将軍が「白州さんの英語は大変立派な英語ですね」とお世辞を言った。そこには、勝者としての奢りが込められていた。これに対して、白州次郎は「あなたももう少し勉強すれば立派な英語になりますよ」と答えたという。

エピソード2

1945年12月のクリスマス。マッカーサー司令長官に白州次郎天皇陛下からのプレゼントを届けた。部屋のテーブルの上はプレゼントでいっぱいだった。マッカーサーは床のどこかに置いていけというという仕草をした。すると次郎は「いやしくも天皇陛下の贈り物である。床などにおけない」と怒りを爆発させた。驚いたマッカーサーは、急いで新しい机を運ばせた。「マッカーサーを怒鳴りつけた男」と言われるのはこのエピソードから。(事実でないという話もあるが、白洲次郎の性格をあらわすエピソードとして記載する)

白戸家のモデル

ソフトバンクのCMでおなじみの白い犬の名前が白戸次郎、樋口可南子が演じているお母さんが白戸マサコです。白洲次郎白洲正子さんをモデルに作ったとのことです。

 

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